日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

DOCOMOMO Japanリーフレットと鎌倉近美

2011-04-24 11:14:24 | 建築・風景

日本工業倶楽部会館の屋上から撮った東京中央郵便局の写真を使ったDOCOMOMO Japanのリーフレットがなくなり、新版をつくった。
記載している選定した建築は100から150になって構成を一新することになる。
表紙の写真は平家池に面して建つ鎌倉の「神奈川県立近代美術館」にした。
コルビュジエが設計し、弟子、前川國男、吉阪隆正、坂倉準三がサポートして建てた西洋美術館にする案もあって写真も撮ったが、この鎌倉近美はDOCOMOMO Japanとの縁が深い。やはり近美だと思った。

1999年だった。DOCOMOMO International(本部)からの要請があって、日本のモダニズム建築を世界に伝えるために20の建築を選定し、鎌倉近美で建築展を行った。その実行委員会のメンバーが中心となってDOCOMOMO Japanをつくったのだ。
選定したのだから広く社会に伝えたい!思い立って近美の学芸主任と相談して企画が具体化し、20選展の事務局長を務めた。Japanは2000年のブラジリアの総会で加盟承認される。その折世界各国家から持ち寄った20選のリストが本になって出版された。

東海大学のwebTOKAIに僕は、「只者ではない者たち:坂倉準三という建築家のいる鎌倉の近代美術館」と題するエッセイを書いた。坂倉建築研究所の最高顧問阪田誠造さんは、坂倉とそのOBにとってこの美術館は「一つの原点である」と述べていて、僕は坂倉の原点だと言うことは日本のモダニズムの原点だと言ってもいいだろうと書いた。

●Web TOKAI
http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/index.html

付け加えたいのはDOCOMOMO Japanにとっても近美は原点なのだが、僕が若き日同居したモダニズム建築の、僕にとっての原点にもなった。webTOKAIのエッセイを読んでいただくとわかっていただけるのだが、おなじ1999年に美術史の高階秀爾先生に代表になっていただいて「神奈川県立近代美術館100年の会」(愛称「近美100年の会」)をつくることにもなった。

webエッセイを読んでくれた奈良に住む建築家、坂倉OBの好川忠延さんが興味深いエピソードを寄せてくれた。
「坂倉さんは図面を書かない、プランニングをしないと良く言われ、そのとおりだが、吾々が描いた平面図を見せて打ち合わせをすると、窓の位置を少し左にとか、トイレの向きを横に置くなど細かいことを次々と指示されて直していくと、いつの間にやら坂倉風のプランになるという不思議なものでした。
西澤文隆(坂倉さん亡き後坂倉を率いた建築家)さんも同じことを言っていて、若かった私は、建築家たるものは全体のコンセプトを理路整然と述べるものだと思っていただけに、大変不思議な存在でした」。

その坂倉さんに突然いままでに見たこともない怒られ方をされたことがあるのだという。
好川さんの担当した「旧上野市庁舎(伊賀市役所)」の平面図を見せてプランニングの説明をし、議会を静かな空間とし、其れにふさわしい空間の大きさを準備して2階の中庭廻りの廊下は、中世ヨーロッパの修道院(私はモサアックをイメージしていた)の回廊をイメージしましたと述べると、持っていた赤鉛筆をへし折って叩きつけられた、というのだ。
何故怒られたか(好川さんは、烈火のごとく、と書く)理解できなかったが、鉛筆を投げ捨ててから言った「建築はファンクション(機能)を追求することから始めなくてはいけません」と言う言葉は今でも覚えていると言う。

上野市庁舎は鉛筆事件のあと何事もなく、ほぼ好川さんのプランで進み、坂倉さんは上野に一人で見えられて、現場に常駐している好川さんに一対一で相談に乗ってくれたことを、いつまでも忘れ得ない懐かしい想い出だと書かれている。
そういえば、OBのどなたから聞いたことがある。
近辺の名物、昔の木造だった事務所の窓から聞こえてくる、坂倉さんの大きな声!

「只者ではない者たち」。
建築家坂倉準三と、戦後間もない1951年、荒廃した日本の復興を願い、鎌倉に近美を建てさせた当時の神奈川県県知事、内山岩太郎を、僕は「只者ではない者たち」と書いた。

ふと思い出したのは、昨年の10月17日のDOCOMOMOセミナーの人たちと訪れた愛知県立芸術大学で、中京テレビの取材を受けて僕が述べたのは「吉村順三は只者ではない!来るたんびにそう思っちゃう」。
このキャンパスの計画をし一連の建築群を設計をした吉村順三。ああ溜息が出る!