キングセイコーが直った。届いてからもう2ヵ月半にもなる。松山の時計工房勇進堂六代目川口宏さんから丁寧な手紙とともに送られてきた。
時折しまってあるチェストから取り出し、ゆっくりとネジを一杯に巻く。ゆっくりと巻いてくださいと川口さんが言うからだ。そして腕につけいそいそと出かける。電車の中で腕をめくりそっと新しくしてくれたガラスを撫でたりする。
この腕時計は、1967年(昭和42年)2月に製造された。裏蓋に刻印されているシリアルナンバー(製造番号)で製造年が解るのだ。そして裏蓋の内側に、S、2.48と書き込みがあり、平成2年か2002年、或いは昭和48年の2月に修理したようですと川口さんが言う。僕は修繕したことを覚えていないが、僕のこの時計への思い込みも川口さんはしっかりと受け止めてくれた。
職人としての時計への慈しみと、そこにはつくったセイコーの技術者への感謝の気持ちも感じ取れる。
この時計は32歳ですけど人間で言うと80歳を超えた老人ですと書いてある。大切に使って欲しいという思いに充ちているのだ。
ベルトにつけるKSと刻み込んだ尾錠も探してくれた。金色を探したがどうしても見つからなくて申し訳ないと書き添えてある。時計が金縁なのだ。さらにベルトは黒の鰐皮がいいが高いので刻印したものでもいいし、それでなくても黒がいいですとある。僕の時計なのにと川口さんの気持ちが僕の心を動かす。
電話した。使わないときでもネジを巻いておいた方がいいですか?いや巻かないでくださいと少し甲高い声で答えてくれた。
このブログが縁で勇進堂を紹介してくれたtakahiroさんからは、六代目の心意気ですとコメントが寄せられた。息子さんが跡を継ぐと知らされている。ところが手紙の名前の後に56歳とある。ぼくより一回り以上お若いのだ。こういう職人がいる。日本はいい国だとつくづく思う。
箱の中に、授業の始まった日土小学校の様子をルポした愛媛新聞の記事が同封してあった。
日経アーキテクチュアの10月26日号の`有名建築その後`でもルポされているが、子供たちのうれしそうな顔が印象深い。愛媛新聞の写真では子供たちの後に、女子(おなご)先生の笑顔が輝いている。
増築棟は、既存棟と違和感がないよう配慮しながら愛媛の材料を駆使してオープンクラスにトライし、設計した建築家武智さんの建築となった。この教室で子供たちが生き生きと勉強をしていると報道されている。
この学校の保存・活用は大きな話題になり、全国から見学希望者が引きもきらず、市長の肝煎りで今年も押し詰まった12月27日に見学会を計画した。この建築の保存・活用は、僕も関わって取り壊して建て替えることが決まっていた六本木の国際文化会館の保存改修活用事例とともに、現在の日本の建築界の成果だと思う。しかし考えることもある。
日土小学校の生徒は少子化が進み六十数名で、数名減ると複式学級になりかねない。一時その数倍の生徒がいたのだ。でも増築をすることになった。これからのこの地域の教育環境を見据えているのだとは思うものの!
考え込むのは、関東大震災の後建てられた明石小学校などの東京の魅力的な復興小学校3校が取り壊して建て替えることになったからだ。この学校群も教室が足りないのだという。都心回帰で子供が少し増えているというが、さてどうなのだろうか。
終戦直後の僕の小学生時代と比較しても意味がないが、ともかく6学年で6教室と講堂しかなかった。それでもこんな僕だが、今の僕がいる。
明石小は阪神大震災の後耐震診断をやって安全だといわれている。それにしても何故取り壊して建て替えるのだろうか。どうしても新しい教室が必要なら工夫して教室や必要な部屋を増やせばいい。
函館では教育長にDOCOMOMOからの「函館市立弥生小学校」の保存・活用要望書を渡して意見交換した。
この小学校は明治に創設されてから125年経ち、函館大火の後、鉄筋コンクリート造になってからも71年を経た。この学校の校長として3年間子供たちを育てた教育長は、新築してもこの学校の理念は継承すると力説された。僕はこの校舎が無くなったら培ってきた理念(この校舎で学んだ記憶とともに)も無くなりますよと述べた。
ここで学んだことを誇りに思い、人生の糧にしている人が沢山いる。そして校舎であってもこの場所を築いてきた景観をも失う。
小学校統廃合など複雑な経緯があるが、施設課長に案内していただいて市立弥生小学校の内部を見学させてもらって改めて感じた。こんな素敵な校舎を壊してしまうの?
<写真 函館市立弥生小学校>