日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

泣きの銀次 宇江佐真理の視線

2009-04-24 21:14:31 | 日々・音楽・BOOK

「続」を先に読んでしまった。図書館から借りてきて読み終わった妻君がぽいと僕の目の前において、続きだよという。
「泣きの銀次」? 読んだ記憶がない。数週間前のことだ。
続きを先に読んでも大丈夫かなあというと、独立した書き方なのでいいと思うけど、`泣きの銀次`を読んでないはずはない、物忘れが酷くなったなあ! とぶつぶつ言っている。

「続・泣きの銀次」。読み始めてぐっと込み上げてくるものがあった。物忘れも酷くなり、涙もろくもなったと実感するが、`泣きの銀次`はやはり読んでいない。
「続」では、小間物やを営む大店の主でありながら、岡っ引きに復帰した銀次をとりまく市井を描くどのページからも、ふつふつと湧き上がってくる情感、言い換えると生きていく『人』への作者「宇江佐真理」の慈しむような視線に、僕の心が共鳴して黙っていられなくなった。
共感しながら、僕が読みこなした数ある宇江佐真理(うえざまり)の作品群の中での代表作ではないかと思った。

そして「ほら!」とつい先ごろ手渡された講談社から1997年に発刊された「泣きの銀次」。妻君が図書館を探してくれたのだ。
大勢の人に読みまわされ少々くたびれたいかにも大衆小説を思わせる百鬼丸の装画と丸尾靖子による装幀は、しかしどこかに僕の想いと同じくこの作品に共感した想いに満ちていて品がいい。市井の中で、凛と生きている人々への共感だ。

さて渡されたこの「泣き」の銀次。一気に読んだ。
この細面で小柄とはいえ敏捷で男前の若者は、小伝馬町小間物やの大店坂本屋の長男。「細見(吉原細見)と首っ引きで、やれ玉屋の花魁の誰それ、やれ扇屋の新造の誰それと鼻の下を伸ばし、いっぱしの通人を気取っていた。」
そして友達が皆そうだったからそれが特別なこととは思わなかった、と宇江佐は書く。今の時代もそうではないのかとつい思わせられるところがこの作者に惹かれるところだ。

銀次が変わったのは妹の`菊`がむごい殺され方をされたことだ。「死体を前に身も世もなく泣きじゃくった」。それが後に、死体を見て泣く銀次を見るために好奇心に満ちた(野次馬の)大勢の町人が取り囲む、いわばスター岡っ引「泣きの銀次」のスタートになった。

銀次は妹を殺した下手人を取りつかまえて殺してやるとわめく。そのときの同心が勘兵衛。銀次が言う。
「はばかりながら、こっちには剣術(やっとう)の心得があるんでね、どんな悪党が下手人だろうと恐くはねえのよ」。
しかし、神道無念流の達人勘兵衛の強さは銀次の強さをはるかに超えるものだった。道場で、髪はザンバラになり、眼だけを爛々とぎらつけさせながら勘兵衛に挑む銀次を「容赦なく打ち込みながら、勘兵衛はある種の感動にうたれていた」と二人の男と男の出会いが描き出される。

物語が進むうちに坂本屋の女中、お芳の存在が大きくなり、読み終わってみると予定調和的に、つまりハッピーエンド的にこの小説が構成されていることに気がつく。殺された妹の無念を晴らしたものの、ずしりと重いハッピーエンド。だからこそ心にしみこんでくるのだ。心打つエンターテイーメントってそうなのだ。
泣きの銀次とお芳、勘兵衛、登場人物の全てが僕の目の前で息づいている。嫌味な女でさえも。
ちょっと褒めすぎで、そしてちょっと軽薄だと思うものの、心がうごかさせられるということはこんなものだ。紆余曲折があって銀次とお芳は一緒になる。

「お芳は泣いていた。父親の葬儀にも涙を見せなかった女が泣いていたのだ。
さめざめと嬉し涙にくれるお芳を、銀次ははじめて見た様な気がした。
銀次は感動したが`照れ臭さに`泣き顔の似合わねエ女とうのも、この世にいるんだな`と言って、また知念(二人を取り持つことになったお坊さん)を笑わせていた・・・
世の中なんて・・一寸先は闇じゃあねエか・・肝心なのは今だと銀次は思う。・・銀次とお芳の足元にどこから吹いて来たのか、桜の白い花びらがひとつ、ふたつと落ちてきた」

と書いてきて、ストーリイを書かないので読者は一体何をいっているのか判らないだろうと思ったが、まあいいや。しかしやはり続きは後に読んだ方がいい。
数年後を舞台にした続き。大店の主に納まって少し歳とった銀次がなぜ岡っ引に復帰したのか、物忘れをする僕はもう一度「続」を読み返してみたくなる。

その「続 泣きの銀次」は、淡々と事件が描かれているだけに、更に完成度が高い、としつこく言ってみたくなったのだ。