日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

昭和のロマンとモダニズムを秘めた「愛される三信ビル」

2007-01-19 12:48:28 | 建築・風景

嬉しいことがある。
三信ビルのシンポジウムの会場に来てくださった建築家林昌二さんから、お手紙を頂いたのだ。このビルはぴかぴかに輝いている、日本が最も輝いていた昭和ひと桁時代を語り継ぐこの建築を残したいと励まして下さった。
ご了解を頂いたので、後段に記載させていただく。

三信ビルの存続を願って1月16日にシンポジウムを行った。タイトルは「三信ビルの存続に向けて」。
コーディネートを担い司会をした僕の問題意識は副題にある。
『残し活用しながら新しい都市を創る』。
このビルの魅力を探るだけでなく、移り変わっていく、つまり人の手で創られていく都市の中で、時を刻んできた建築の存在する意義とそれが存続していくことの大切さを問いたいと思ったのだ。これは基調講演をしてくださった初田亨工学院大学教授や、若い世代のパネリストの問題意識でもある。

130名を越える人で溢れた建築家会館(JIA)は熱気に満ち、コメンテータとして祖父横河民輔や、設計を担当した松井貴太郎について自分の想い出を振り返りながら、この建築へのご自身の想いと、新しい技術に腐心した松井貴太郎の建築にかける情念を述べた建築家横河健さんが、冒頭で驚いたと率直に述べたように、参加者は女性がほぼ三分の一、そして建築家や歴史学者だけでなく過半数が一般市民だった。写真家の中川道夫さんもきてくれたし、このビルに触発されて作曲しピアノを弾いた音楽家Aricoさんもいる。休憩時間に静かで心に沁みるピアノの音をCDで会場に流して聴いてもらった。

このシンポジウムはJIA(日本建築家協会)関東甲信越支部が,建築学会関東支部の共催を得て行ったのだが、JIAのシンポジウムとしても異例なことだ。
パネリストの東大総合文化研究科の博士課程に在籍している鈴木貴宇(たかね)さんが累々と述べたように、大勢の市民がこの三信ビルを『愛している』証だと思う。

東京日比谷の歓楽街の中心地に建つこのビルは、横河工務所の設計により1929年(昭和4年)の暮れに竣工し、その後に建てられた有楽座や東京宝塚劇場の作り方に影響を与え、七十数年にわたって大勢の人々を虜にしてきた。
当時流行った三層構成のファサード(立面)や室内の細部や外観に彫刻を刻みこみながら、階段やエレベータによるコアを作り、一階と二階を利用して店舗を入れるいわゆるアーケードつくるという、新しい時代を見据えたプラン。この大正文化を髣髴とさせる昭和初期のロマンとモダニズムの予兆を感じさせる時代の証人でもある。

所有者の三井不動産は老朽化の為に解体するとHPで公表した。
パネリストJIA保存問題委員会副委員長の金山眞人さんは、保存要望書を持って三井の担当者と面談したが、老朽化としか回答を得なかったと述べた。僕は別ルートで四方を道路で囲まれていて免震化も難しいと三井では考えていると聞いていたが、昨年11月の日刊建設工業新聞に道路の向かい側に建つ日比谷三井ビルも含めて一帯を再開発すると記載されたのを見て、これなら残せる可能性があると思った。

様々な方と相談し、コーディネーターを引き受けたのはその記事があったからだ。これを書いた記者は、三井日比谷ビルに入居していた銀行が移転すると聞いて、もしやと思って取材を始めたという。こういう記者の感性があってシンポジウム開催につながったともいえるのだ。
若い都市研究者の川西嵩行さんは、様々な都市制度などを紹介しながら一つの例として日比谷三井ビルを高層化して三信ビルを残すプランを紹介した。残せるかもしれないと聞いて、会場の特に女性の目が輝き始める。その視線に僕は少々うろたえた。

僕もこのビルは得も言われず好きだ。DOCOMOMO Koreaの代表が来日されたときも見てほしいと思って案内したし、何度も訪れて食事をしたり、ノックス・フォトという写真機材の店を覗いたこともある。
しかし司会をやりながら少し居心地が悪くなった。45分も時間延長するほど盛り上がったが実は終わってからなぜかすっきりしない。

その一つは同じ横河工務所の建てた四十数年しか経たない三井日比谷ビルを高層化するという考え方だ。新しいものを壊して古いものを残す。もう一つは結局この考え方は経済優先を容認することになるのではないかという疚しさを感じるからでもある。創る建築家の解き得ない命題だとも思う。まとめを述べた内田青蔵教授がどの建築にも残す意味があるという言葉の一端にも込められた思いだ。そして何故市民がこの建築に魅かれるのか、僕も同じようにこの界隈に来ると何故胸が騒ぐのか、僕達が現在(いま)創っている建築はどうなのだろう。

翌日の夜林昌二さんから電話を頂いた。僕の最も尊敬する建築家である。手紙を下さるという。千路な思いで眠れなくなった。しかし頂いた手紙を読み、この建築に対する想いと素晴らしさだけを訴え続ければいいのだと心に記した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兼松紘一郎様            
林昌二
昨日の三信ビルシンポジウムは大変興味あるものでした。有難うございました。
時間が限られていたので敢えて発言しませんでしたが、求められたら言いたかったことを、念のためお届けしておきます。

あのビルは1928年生まれの私にとっては、親しい同級生のように感じられます。ビルの老朽化がいわれているようですが、私は老朽化しても、ビルはぴかぴかに輝いて、まだまだ働きざかりです!

三信ビルは昭和ひとけた時代、日本が最も元気だった時代をよく伝える建物であると思います。戦後の日本は仮にお金があってもその使い方を知らない、こころ貧しい社会になってしまったようで辛いのですが、それに較べると、昭和ひと桁は日本が力一杯伸びて元気だった、珍しい時代だったと思います。それは昭和初期から始まって、せいぜい10年間でしたが。昭和15年に紀元2600年を祝うつもりだった日本は、肝心の時が至る頃には、戦争に疲れてもう何も出来なくなっていたのですから。昭和ひと桁の10年間は、大正時代に育った自由な人たちが闊歩していたことでも貴重です。建築は時代の子と言っても、そういう雰囲気を表している建築は、もはや多くはありません。

三信ビルは日本が最も輝いていた時代を語り継ぐ、実に貴重な造産だと思うのです。
過去を蔑ろにするものは、将来を失います。現在の日本は、貧しいわけではないし、三信ビルは老朽化しているどころではなく、働きざかりです。それを殺そうとはどういう了見なのか、理解できません。あと半世紀もすれば、あれは残しておきたかったと残念がるに違いない建築です。

お元気で、ますますのご活躍を□