エスカレータで下りながらふと気になり右を見ると、ガラスにどきりとする姿が映った。僕の真後ろに立つまっすぐ前を見据える女子校生で、下の階へ乗り換えるときに思わずちらりと盗み見した。ミニのスカートの制服姿。自分の、それも妖しげな魅力をしっかりと意識している。ちょっとこしゃくな。
これはまずいと思った。誰もが魅かれる小悪魔。
上手く大人になれば、若き五木寛之が雑誌「NOW」でオマージュを送った大地喜和子になる。
いやもっと、もしかしたら表には現れない底なし沼のような。何故まずいか、僕の人生にない女なのだ。
人の生き方を考える。人は今何故今の自分の道を歩むのだろう。選択比があるようでない。もしかしたらどこかで道を選んだのだろうが、深く惹かれながらも選び得なかったのだろうか。きっとそうなのだ。
そんなことを考えるのは、2冊の短編集を続けて読んだからだ。
一冊は山本周五郎の中短編秀作選集3「想う」である。NHKで始まった「ちいさこべ」が収録されている。もう一冊は大岡玲の「塩の味」。これは月間プレイボーイに連載されたものだ。二冊とも今の僕が手に取る本ではないと思うのだが、図書館でパラパラとページをめくってほんの少し斜め読みして借りてきた。
山本周五郎の長編「赤ひげ診療譚」は読みつくしたし、三船敏郎の赤ひげは即座に目の前に現れる。だから周五郎は知らないでもない。この中短編を読んでみようと思ったのは、収録されている作品の書かれたのが、僕の生まれた1940年から1955年の十年間で、特に終戦間近の45年婦人倶楽部8,9月号、それに終戦直後の11,12月合併号に記載されたものが収録されているからだ。読んでみると、周五郎はぶれていないとは思った。
併しやはり終戦の前は賢婦と言うか、ひたすらお家大事の武士の世界の翼賛につくした健気な女性が主人公だし、戦後の作品は少しフリーっぽくなる。当然のことかもしれないがどちらも教訓的なことが気になる。ところが本来僕の嫌いな教訓、言い方を変えればノウハウ的な組み立て方は受け付けないはずだし、文体も古臭いのに読まされてしまう。
なぜか。真摯なのだ。生きることに。登場人物もおそらく作者も。これには参る。
だからドラマ化は難しい。今日(9/7)見た第一作目は全く駄目だった。シナリオや役者も。作り物のセットが酷いということもある。
一方「塩の味」には小悪魔っぽい女に溢れている。僕の世界ではないし、この短編の一方のテーマである美味い料理も、いかにも美味そうだと思うが僕の世界ではない。僕はグルメではない。美味いものは好きだし、忘れられない鯖の刺身の味があるが、さし当っての僕のテーマではない。
ところが美味そうだと思わせる、多少軽薄だが読ませる筆力が大岡玲にはあるのだ。そしてそれが切っても切れない女との関係だと彼は言いたいのだ。
どの短編も主人公は概して40代の男性つまり大岡玲で、大体女(若かったり50に届きそうな)にしてやられる。と言って、してやる女が幸せかと言うとそうでもない!だがそういう女こそが小悪魔なのだ。
僕の心の隅に痛みが走る。読みながら、ちくりちくりと。
どこかに、微かに思い当たることがあるのだ。でも僕は選択しなかった。しなかったのでなく出来なかったのだ。そして一見当たり前の人生を送ることになった。「想う」人生を。まともな。
エー!と言う声が何処からともなく聞こえてくるが。うっそーとも。
さて今日ちらりと見た若き小悪魔はどんな人生を送るのだろうか。
「塩の味」人生が間違いなく彼女の目の前に開いている。