封緎はがきというのがあった。
普通のはがきより一回り小さい92ミリ×125ミリで、開くと92×272ミリになり、裏も使うと、はがき4枚分の文字が書ける。はがきは3銭で封緎はがきは4銭だが別に切手が貼ってある。ところが三通とも消印が残っているもののなぜか切手が剥がれているので何銭かわからない。
紙質はあまりいいとは言えず、わら半紙のような色をしている。母は繰り返し繰り返し読んだと思うが、しみが出たりしているが破けたところも無く、大事にしてきたのだと思う。
2通の消印は昭和19年8月8日、住所は久留米と書いてある。1通は差出人が父の名ではなく別名になっている。しかし内容はほとんど同じだ。届かないことが心配で名前を変えてもう一通書いたのだろう。僕は傷まないようにそっと開いて、万年筆で書かれた手紙を読む。
『お前たちと別れてから、丁度2週間になる。もっと早く南方に出発の筈だったが,都合に依り延期になったのだ。出発のときは余りにあわただしい別れで俺も随分つらかった。そして入隊した日なんか、即日にでも早く出発して欲しい気持ちだった。確かに平常心を失ってしまった様だった。
ここに来て始めて、しかも海外に出発する覚悟を決めて、つくづくお前に何もしてやれなかった事がくやまれる。お前は俺にとって確かに過ぎた妻だ。総てにいたらぬ俺にそんなに長い年月とは言えなかったにしても、よくも仕えてくれたものだと本当にありがたく深く感謝している。
3人の子供に恵まれて、不足勝ちの生活だったにしても、俺たちは確かに幸福だったことは否めない。
在隊中の二週間の生活は、確かに俺の生活意欲を旺盛にしたようだ。最初のうちは俺は国家の為に死のうと覚悟を決めた。お前たちと別れる時は、俺は実際死を覚悟していた。併し俺の覚悟は変わった。
俺は国家の為に生きようと決心した。国家のため、又お前たちの為に是非生きようと決心したのだ。一種の悲壮感というものは、心の中から消えて今の俺の心は勇気で一杯だ。
俺は必ず生きて帰るぞ。
俺はことさらにお前たちの写真を持ってこなかった。子供たちやお前のことは、何時又何処ででもあざやかに心や頭の中に描くことが出来る自信があるからだ。又戦地に行った時、成長したお前や子供たちの写真を撮って送ってくれ。戦地では実は便りは出せぬのだ。成長した姿は、或いは違った形で俺の脳裏にうつるおそれがあるからだ。
ずい分暑い日が続く。
身体には充分に気をつけよ。子供たちには俺とお前の二人分の愛情を注いでくれ。決していじけ者には育てるな。すくすくと成長さしてくれ。
俺は何処にいても、お前たちの幸福を祈っている。お前たちが幸福に暮らしている事を考えて、俺の心は和むのだ。空襲の被害にかからぬ様、費用にはかまわず疎開するなりして最善の策をお前がよく熟考し、駒込、阿佐ヶ谷と相談してたててくれ。
俺は昔から楽観主義者だった。俺は俺の力を信じるし、又日本国の実力を信じている。観念的な楽観でなしに帰納的に俺は日本の勝利を確信している。
戦友はみんないい人間だ。「兵営は私生苦楽を共にする人間(軍人)の家庭なり」本当にそんな気がする。
俺は常々どんな場所でも、又どんな場合でも俺なりの生き方をしていく。
神山が出征のとき、「戎衣きて夢は戦地をかけめぐる」という句を残して往ったが、俺は未だそんな夢はみないが実によく安眠する。痔もでず身体の調子は上々だ。
たくましくなって帰る俺に期待してよろし。』
<写真。父の学生時代・つるや旅館の前で。何処の`つるや`なのだろう>