日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(13)最後の便り

2006-09-16 13:14:01 | 生きること

最後のはがき。
「比島派遣マニラ野戦補充司」とゴム印が押してあり、「軍事郵便」と四角く囲った手書きのペンでの書き込みがある。「検印済み」もペン書きで、南という押印がある。2銭のはがきに1銭の切手が貼ってあり,消印はほんの一部だけで日付がわからない。意識してそういう押し方をしてあるようだ。

『紘一郎たちも元気のことと思ふ。丈まで明るくそして強く育ててくれ。俺は士気極めて旺盛である。駒込、阿佐ヶ谷、逗子、アパート、別に便りしないから、よろしく伝えてくれ。元気で頼むぞ。近所にもよろしく』
そして色の違う文字で『返信不要』と付してある。

さらに右の余白に小さい文字で書き込みがある。
『会社へもその旨伝えてくれ。国家のため、早く現在の真空管の優秀なのを、しかも大量に作ってくれる様祈っていると伝えてくれ』

フィリピンはどういう状況だったのだろうか。どういう街だったのか。しかしこういう書き方しか許されなかったのだろう。でも本文は短いが書けることは書いたのだと思う。士気旺盛とは言いながら、世話になった人々への感謝と、何はさておき元気で居て欲しいという気持ちとがにじみ出ていて、深とした気持ちになる。
付記を何故書いたのか。会社が電球など作るメトロ電気で、父が通信兵だったからだろうか。すがる思い、生きて帰りたいという気持ちが書かせたのだろうか。いややはり会社への思いがあったのだろう。「返信不要」に軍隊の状況がわかる。

母は何度も読み返したと思うが、僕も父からの手紙を繰り返して読む。封緎はがきにあった、僕たち家族との生活を継続する為には、どうしてもここで米英を徹底的にやらねばいけないのだという一節を。そうでなくては生きて帰れないことを。いや父の気持ちのどこかで、奥底で、人が生きることは当たり前のことで敵を憎むことはなかったのだと僕は思う。

思えばこのマニラからのはがきが父の絶筆だ。

僕は父が祈るように書いた「杉のように」まっすぐな人間になっただろうか。強い人間になっただろうか。少なくとも背は杉のように伸びなかったなあ。父の子だから。そして(どうも苦労が身につかず)`楽観的`だ。
父の子だから。

<写真 弟の生まれる前日。母のお腹が大きい.左下の写真は祖父と父だ>