日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

旅・人のいる場所 沢木耕太郎の場合

2005-10-12 12:38:44 | 日々・音楽・BOOK

建築家は旅をした。
吉阪隆正も吉田鉄郎も吉田五十八も大江宏も安藤忠雄も。そして自分を見つけた。
誰でも旅をする。でも若き日、放浪に近い旅のできる人は少ない。志もあるかもしれないが環境もある。僕の身近にも建築を視たくて事務所をやめ、シベリヤ鉄道に乗って3ヶ月ヨーロッパを歩いたO君という男がいる。何処か浮世離れをした髯男で熱くシェナの街を語っていたが、今はまじめに結婚して一見普通の叔父さんになった。

放浪の旅にあこがれていたのに僕はとうとうそういう旅ができなかった。だから建築家として名を残せない!とも思わないが、「人生こそが旅、それも放浪の旅だ」と感じることもある年になった。勿論それは年とは関係ないかもしれないし、今からでも遅くないかもしれないが現実はそういうものでもないだろう。
人生は放浪の旅と感じる人間は、たぶん計画性に価値を見出さない人生観の持ち主のような気がする。
ふとそう思ったのは、沢木耕太郎のエッセイ集「一号線を北上せよ」を読んだからだ。
誰にも「北上」したいと思う「一号線がある」というイントロから始まる50歳を越えた沢木の旅は、折にふれて彼の言葉の端々に出てくるのだが、いわば出たとこ勝負。旅が仕事といううらやましいような辛そうな彼の旅論に共感するのだ。

JIAトークで沢木耕太郎の話を聞いたことがある。
チェ・ゲバラだったかカストロだったかはっきり覚えてないが、そのインタビューにまつわるエピソードを中心にした興味深い話だったと思う。
質問の時間になって僕は、会場に来る前彼がその頃彗星のように現れた将棋の羽生善治に会ってきたことから話をスタートさせたので、タイムリーな羽生についての沢木感と、写真家藤原新也の旅論との違いについて問いただしたいという気持ちになっていた。
僕はその頃藤原新也の「全東洋街道」にぞっこんになっており、沢木の「深夜特急」を読みつくしていたものの、どこか物足りないものも感じていたからだ。

しかしちょっとためらってしまったのは、何の関係もないのだが、その数ヶ月前のトークで、デザイナー田中一光に、ところで一光というお名前は本名ですか?と質問し、そうですが!と怪訝な顔をされ、いいお名前ですね、と馬鹿みたいな返事をしてそのまま言葉に窮してしまった情けない体験をしていたからだ。
田中一光はJIAのロゴをデザインし、それは記念碑的な作品だと思うのだが、それから数年後訃報に接したとき、何か一光氏に対して申し訳ないような気持ちになったことを覚えている。
ためらっているうちに沢木のトークは終わってしまった。

沢木耕太郎は僕より若いがそれでも僕と同じだけ年を取ったはずだ。でも変わらず好奇心に満ち満ちているし、「象が飛んだ」というタイトルの、ボクサー・フォアマンとフォリフィールドの戦いのレポートは、人の生き方を超えてエスプリに富んだポエジーなっていて心を離さない。時を経て今僕は沢木をわかりかけている。
さらにこういう見方も彼はする。
壇一雄と壇ヨソ子の軌跡をたどってサンタクルスの町に来た沢木は、はなしに出てきた場所がすぐ見つかるというのだ。そろそろ行こうか、と当てのないままきた町で。
「その時、サンタクルスにさほど変化しない部分があることに気がついた。なんといっても通り過ぎる住人が他の町では見かけない穏やかな表情をしている」

そうなのだ。僕の感じている人のいる場所としての町を、彼は旅の中で見つけてくれたのだ。