「保存の現在(いま)を本音で語る」
今レプリカなどの問題を立場を超えて本音で論議しておかないと、社会がおかしくなるのではないかと多少の危機感を持って「保存の現在(いま)を本音で語る」
<副題・レプリカを題材として>というタイトルで、東大本郷キャンパス工学部1号館階段教室に於いて、パネルディスカッション形式の研究会を行った。(2005年10月15日)
主催はJIA(日本建築家協会)保存問題委員会。主旨説明・小西敏正(宇都宮大学教授 JIA保存問題委員会前委員長)パネリスト・鈴木博之(東京大学大学院教授・問題提起共)、隈研吾(建築家 慶応義塾大学教授)、松隈洋(京都工業繊維大学助教授)、篠田義男(建築家 JIA保存問題委員会)それにコーディネーター・司会 兼松紘一郎(建築家 DOCOMOMO Japan)というメンバー構成である。
レプリカ問題を取り上げて公開の場で討論するのは、おそらく日本の建築界では初めてのことで、建築歴史学者、建築家、行政、NPOやゼネコンなどの建築関係者、朝日、日経新聞,建築ジャーナル誌などのプレス関係者、それに多数の市民が参加する中で熱心な論議が行われた。
後半に会場からの意見・質問などももらい、拍手が出ることもあってそれなりの成果もあったといえるかもしれないが、やはりレプリカ問題は難しく、当初考えていた`何らかの方向性まで見出す`というところまでには至らなかった。
いずれ仕掛け人の一人としてこの問題を改めて整理しないといけないが、下記「レプリカ・時の持つ意味」は当日配布した資料に記載した僕の論考である。
論議が進む中で、多少の考え方がかわったところもあって修正したい箇所(例えば設計者の思惑・問題意識。設計者は自分の痕跡を消したいという。良く解るのだが・・・)もあるが、あえてそのまま記載する。
<なお写真は当日の会場。内田祥三博士の設計した建築に、香山壽夫氏が改修した興味深い建築>
「レプリカ・時の持つ意味」
数年前のことになるが、JIAの大会で愛媛県内子町に行ったことがある。伝建になった街並みを、その保存再生に尽力した当時は内子町の職員だったOさんに案内していただきながら歩いた。ある漆喰で造られた蔵の前で、これは空き地になっていたのだが、正確な資料がないまま、多分こういう蔵が建っていたのだろうと想定の基にこれを建てた。ところが数年たつと、いかにも昔から存在してきたような錯覚を起こさせることになり、しかも古い本物の建物より先に傷んできてしまった。ますます本物のように見える。どうも自分は歴史を捏造したのではないかと、Oさんは呻吟している。
僕は其の時の有様を忘れ得ない。このひとつの事例から、様々な課題が浮かび上がる。
・それでは資料や図面があったとして(蔵では図面はないかもしれない が)そ れ に基づき復元したら、それは本物といえるか。→レプリカは歴史を捏造する ことにはならないか。
・歴史を捏造することは、悪か。本物でないことを表示すれば、それは善となる か。
・そういう問題を内在していても、レプリカを造ることは、都市や社会にとって必 要なことか。
つまりその痕跡がなくなることと、レプリカであっても「そこにこのようなもの」があったということを実感できることは必要か。そのほうが新しいもので練り固めてしまう都市より、僕たちはより豊かな人生をおくることができるか。
こういう問題意識を喚起する事例は沢山ある。
今回の研究会の案内に事例として取り上げた、東京銀行協会、横浜の日本大通の建築群、新橋駅舎、東京駅、旧京都第一勧銀、三菱一号館、それに萬来舎は、全てその課題に該当する。勿論微妙な(実はそれが問題なのだが)違いがある。
例えば萬来舎は場所も違うし正確な復元でもない。通常では保存したとはいえない事例なのだが、もしかしたら時を経ると、かつて在ったところにこのような物が建っていたと錯覚されることが起こるかもしれない。そのとき慶応義塾や設計者はしてやったりと思うか。いや少なくとも設計者の問題意識はそうではなく、かつて建っていた形を取り込んでかつてない造形を試みたというに違いなく、それは同じ建築家の僕には痛いほど良くわかる。しかし「時」は残酷で、そういう人間の思惑を超えてしまうことが起こるということもわかるのだ。
日本大通の建築群は、いわゆる本物の復元(本物のレプリカという言い方があるのか?)と、様式建築を模したそれらしきファサードを造ることによって、助成金を交付する仕組みがあり、その是非の問題を内在する。
東京銀行協会は、復元の悪例として取りざたされることが多いが、果たしてそうか。当時の社会状況の中で、あそこまで持ち込んだ設計者や関係者の努力があって、日本工業倶楽部会館や明治生命館につながり、丸の内の景色を創ってきた。納得できないことも多々あるのだが、と断っておきたいが・・・
ところで反面教師という言い方もあって、あの部分を時折僕もそう言ってきたが、このごろ少し考え方が変わった。東京銀行協会のあのやり方を見て誰も本物とは思わないだろう。ということは歴史の捏造にはならない。レプリカを本物らしく創る危険を回避しているではないか。
しかし!と考えてしまう。ああいう建築に取り囲まれたら、僕たちは非日常的なディズニーランドで生活していることにはならないか。生活するうえでの大切な、ゆったりとした安心感は得られない。では本物とは何か。ごちゃごちゃしていて悪しき都市の例といわれる有楽町駅前や新宿の飲み屋街。なにやらバナキュラーっぽくて人の心をくすぐる本物のにおいに満ちている。
さて建築家はどうすればいいのか!
情報を後世へ残そうとする人の心が創ったレプリカならば、ブランド物の装飾品の偽者とは目的が違っており、又それをモチーフにして建築家の新たな試みがなされた場合でも、そこから新しい歴史がはじまります。とりたてて、そのことを表示しなくても、事実を消失さえ、しなければ良いと思うのです。奈良の大仏殿を「創建時の形ではない」と非難する人はいないだろうし、金閣を見て銀閣と同じように感動出来るはず。日本にオリジナルの天守閣は4つしかありませんが、天守閣跡の石垣を見るより、RCでも良いから天守閣を撮影したい。
事例に挙がった建築は大衆的ではない故、もう少し複雑な問題を抱えていそうですが、レプリカが創られるだけの価値を持っているということを大切にしたいと思います。
と言いつつも、バーミヤンの石仏が復元されても、されなくてもどちらでも良いという気持ちも持っていたりします…。
研究会でも、レプリカは良くない、という基本意見はなかったのですが、僕はやはりそう簡単に割り切れません。
横浜の大通りに助成金をもらって建てた建築の中に、吹き付けタイルで塗装した石風のオーダーの基盤を手でたたいたら、ぽこぽこと音がしてびっくりしました。コンクリートでもどうかと思うのに、下地をベニヤで作って石のように見せているのです。大通りに面しているようなのですよ!この建築は建っていた建築の復元でもないのです。なんとなく様式建築風に創ったのです。
この建築のやり方の課題のひとつは、創り方の問題ということでもあるのですが、それだけもないと考えてしまいます。
問題提起をされた鈴木博之さんは、平等院の庭に資料もないのに想定して創った橋を取り上げ、こういうことはやるべきではないというところから話をスタートさせました。
この研究会ではあえて触れなかったのですが、復元する三菱一号館を見てみたいという気持ちもないでもなく、また材料工法をどうするかという課題もあり、それも興味深いと思うものの、一号館は建っている三菱商事ビルを壊して建てます。まだ35年ほどしかたっていないのに・・・地所のスタンスは解らないでもないのですが、どうも釈然としないのです。