日々・from an architect

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松本竣介展:神奈川県立近代美術館別館にて

2016-12-11 17:41:28 | 建築・風景

~解体された近美新館の様相を観る~写真左・発行してきた近美100年の会の冊子

昨2016年12月10日(土)、解体された神奈川県立近代美術館新館(鎌倉館)の様相を観るために鎌倉に赴いた。この件に関しては後段に記す事にして、別館で開催されている「「創造の原点」と銘打たれた「松本竣介」展(12月25日まで)に触れておきたい。

改めて感じ入ったのは「立てる像」と題した1942年松本竣介30歳のときの著名な作品である。
会場に入ると正面に掲示されていて息を凝らして佇み見入ってしまった。よく知られている作品群が丁寧なレイアウトで沢山展示されているが、この「立てる像」を見ただけで胸が熱くなった。そしてその作品群の一つ一つに眼が奪われ、嘗て具象にはほとんど眼を向けなかった僕が、なぜ!と自問自答することになる。

カタログの冒頭に、水沢勉館長の`あいさつ`と題した一文がある。
「松本俊介(1912―1948)は、戦争そして敗戦という日本近代において最も過酷な時代を生きた画家の一人です。36年という短い生涯を、戦後の混乱のなかおおくのひとにおしまれつつ終えましたが、その魅力は今なお色あせることはありません」とあり、戦争を挟んだその時代に生きた画家に眼を向ける。
展覧会の画集(カタログ)をめくりながら、何度か見てきたこの作品群に、ことに「立てる像」に何故こんなに心が騒ぐのかと、世界のJAZZ界を率いたコルトレーンの「バラード」を音を絞って聴きながら、夕陽の染まり始めた雲の浮ぶ空に時折眼を向けて、考え込んだりしている。

さて、鎌倉の「近美本館と新館」問題である。
この美術館の本館が鶴岡八幡宮からの敷地借用により、坂倉準三の設計によって建てられたのは、戦後間もない1951年、考えると僕がまだ小学生だった。そしてその15年後の1966年に同じく坂倉準三建築研究所によって新館が増築された。
本館を担当したのは駒田知彦と北村脩一。新館は、坂倉事務所の代表を担った阪田誠造の指示によって室伏次郎などが担当したが、館長を担っていた土方貞一から、このような美術館が欲しかったのだと絶賛されたとのエピソードが伝えられている。
その新館が無くなった。

本館ともども存続を願って2002年に高階修爾(当時は西洋美術館の館長)に代表をお願いし、坂倉建築研究所の阪田誠造にサポートして戴き僕は事務局長を担って「近美100年の会」を創設した。13年を経たが、敷地の土地の鶴岡八幡宮からの借地提供によって建てられたこの二つの建築の存続が怪しくなり、なんとか使い続けて欲しいと願って活動をしてきた。

ほぼ15年を経て活動自体が停滞してしまったが、多くの市民や様々な組織からのメッセージによって、本館は敷地変換後、鶴岡八幡宮が使い続けていくことになったものの、新館は僕たちの想いが及ばず、解体された。

この活動によって「近美100年の会」は、鎌倉市の第一回「景観づくり賞」を受賞し、2004年3月、鎌倉の御成小学校で表彰式が行われた。その折、僕は近美や様々な集会などの活動形跡の映像をスクリーンに映し出して報告を行ったことを思い出す。その新館が!とついボヤキたくもなる。

さて集大成。
「近美100年の会」の会報「小さな箱・大きな声」第4号(最終号)のとりまとめに、そろそろ取り組まなくてはいけない。<文中敬称略>


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