日々・from an architect

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沖縄旅(2) 聖クララ教会(与那原カトリック教会+修道院)Ⅰ

2012-02-20 23:04:13 | 沖縄考

戦災の復興に翔けた多くの人々の思いのこもった建築がある。
その全てを網羅することはできないが、DOCOMOMOで選定してきた150の建築の、例えば東京六本木の「国際文化会館(Iハウス)」(設計坂倉準三、前川國男、吉村順三)は終戦後10年経った1955年、これからの日本に国際交流の拠点が必要と考えた外務省と米政府の思惑の中でロックフェラーの寄付を受けて建てられた。
鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に建つ県立近代美術館本館(1951年設計坂倉準三)と横浜の神奈川県立図書館(1954設計前川國男)は、当時の内山知事の、人の生きていく糧として日本に新しい時代の文化を築きたいという想いによった。

訪れた聖クララ教会や那覇市民会館、久茂地公民館(旧沖縄少年会館)は、それぞれ建設年や用途が違うが、つくられた志には共通するものがある。

日本の数多くの都市が空襲によって破壊されたが、沖縄は本島を分断する米軍の作戦によって中心部となる読谷に上陸した米軍と日本軍との悲惨な戦いから始まり、その凄惨な様は肝に力を込めないと振り返ることさえできないが、1945年の終戦後もアメリカ統治の時代が続き、その27年後の1972年に日本復帰がなされて沖縄県となった。
それから40年を経た今なお普天間基地をはじめとする基地問題に沖縄の人々の生活と自然環境が脅威にさらされているのは周知のことである。

コンサートを主催する沖縄建築士会島尻支部から送ってもらった資料によると、聖クララ教会(与那原カトリック教会+修道院)の設立は、終戦2年後の1947年、全土が焦土化した沖縄支援のためにアメリカからサンフランシスコ修道会の方々が來沖したことに端を発する。
援助物資の配布や医療支援など多くの問題があるものの、唯一つの教会も活動拠点になる建物もなく、援助活動のためには修道女であるシスターたちの奉仕活動が不可欠で、シスターを養成する修道院を建てることが必要となった。

資料には更にこう書かれている。「サーダカー(怨霊のいる場)として地元の人々に恐れられている土地を取得して整地し、1958年7月27日、ここに沖縄のための世界で一番小さな修道院『聖クララ修道院』が誕生します」。

2002
年初めてここを訪れた僕は、中央の廊下(回廊とも言いたい)を挟んで中庭を持つ教会と併設された修道院との魅力的な構成に触れて、当然の如く一つの建築として選定推薦をし、選定要旨(解説文)には`修道院を併せ持つ`と書いたものの、選定名を「聖クララ教会」ではなく「聖クララ教会・修道院」としておくべきだったとこの設立の経緯(物語)を読みながら思ったものだ。
そして「世界で一番小さな修道院」という一言にこれを書いた人の万感の想いが読み取れ、この建築に込められたその理念の存続に尽力している主催者、根路銘さんと新川さんの志に改めて打たれたのであった。

<写真 修道院の中庭>


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3 コメント

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ライトの ()
2012-02-21 12:36:24
明日館を彷彿させる外壁の色合い、そして庭の芝・・・
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どこかに! (penkou)
2012-02-21 16:52:15
mさん
思いがけずライトですか!
このあと書き継ぎますが、設計者片岡献は米軍基地で仕事をしており、基地内で仕事をしたライトの弟子(とも言える)レーモンドとの出会いがあったかもしれませんね。解体されたのですが、レーモンドの設計した東京女子大(ライトの影響を受けたいくつかの建築が存在しています)の東寮(これはチェコキュビズム的ですが)に通じるものがあるような気がしています。mさんの感性も素晴らしいですね!
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なるほど ()
2012-02-22 12:37:12
流石にpenkouさま、設計者やその周辺、ルーツまでご存知なんですねぇ。
お褒め頂く程の感性はありませんがやはりヒューマンスケールの建築は穏やかに自然に私の中に入ってきてくれる気がします。
自分が大型建物を設計監理してこなかったからかな?苦笑
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