日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「近美100年の会」の活動と共に <「建築保存物語」より転載>   

2015-09-21 15:20:26 | 建築・風景

神奈川県立近代美術館(本館1951年・新館1966年 鎌倉市)
<「建築とまちづくり」新建築家技術者集団機関誌2015年7月号より>
 
「鎌倉からはじまった1951-2016」と題した鎌倉近美(神奈川県立近代美術館鎌倉館)の活動の軌跡を伝える展覧会の案内書が届いた。来春2016年の3月末に近美鎌倉館の本館と新館を鶴岡八幡宮に返還する。状況を知っているとは言え、そうか!そうだったと身が震えた。

本館はル・コルビュジエに学んだ坂倉準三が戦後間もない1951年に建てた日本のモダニズム建築の嚆矢。館長を勤めた土方定一が望んで1966年に増築したガラス張りの「新館」を坂倉の元で担当したのは戸尾任宏と室伏次郎。
本館は県と八幡宮によって耐震診断がなされて保存の目途が立ったとも言えるが、知事が変わり傷んだ耐候性鋼を改修せずに閉館した新館の改修検討がなされず、その存続が懸念される。
案内書の水沢勉館長の`鎌倉館閉館にあたって`という格調高いメッセージには、戦後の美術界で近美がなしてきたことと共に、「`鎌倉近美`と愛称された」と敢えて書くこの二つの建築への熱い思いが言外に読み取れる。

「小さな箱・大きな声」と題し3号まで発行した小冊子がある。「近美100年の会」の機関誌だ。
この美術館は更地にして返すという条件で建てた借地更新を15年後に控えた2001年11月、建築の存続への懸念を踏まえながらも、この美術館が充実した活動を続けていくことを願って、高階秀爾美術史家を代表に僕が事務局長を担って創設した。

その1年前、DOCOMOMO japanが、2000年秋のブラジリアの大会で加盟承認される前の春、近美本館を選定した20選(後に別棟学芸員室等を含めた新館を追加選定)の建築展を近美(新館)でやる企画を提唱して事務局長を担当、林昌二の支えで資金調達ができ、松隈洋のコミッショナーで開催、太田泰人など近美学芸員の信頼を得たことで全てが始まる。

「100年の会」は、学芸員推薦の美術関係者と建築関係者各々30人による60名で構成、坂倉準三を引き継いだ阪田誠造や作家永井路子などからの資金を戴いたが、主として活動したのは建築関係者だった。
「近美100年の会」の会名は本館設計を担当した駒田知彦が懇親会での乾杯で、50年を経た近美があと50年「近美100年のために」と杯を上げたことによる。会員はすぐに230人になった。

鎌倉に住む阪田の友人松谷菊男と懇意になり、二人で八幡宮に吉田宮司を訪問、信頼を得て後に高階代表、鈴木博之、坂倉竹之助を同行して宮司と懇談をした。鎌倉各所や近美の見学会など活発な活動をし、2004年鎌倉市「景観づくり賞」を受賞した。

時を経てHPの更新など活動が停滞しているが、共にした多くの方々、駒田知彦や、駒田と共に担当した北村修一に同行して高階に`100年の会`の代表を依頼して下さった坂倉百合夫人、林昌二、鈴木博之、戸尾任宏も亡くなった15年は長かった。とは言え神奈川大教授を担った室伏を師としHPを構築した建築家本間義章など、沢山の方々と共に出来ることはやってきたとの感慨が無くもない。

さて「建築保存物語」は本稿で終焉。社会の変遷の中で、何よりも`建築と人の生きること`を考え続けてきた2年間だった。

<写真 上段学芸員棟(左側)、下段本館ピロティ;一部改定・文中敬称略>