バンクーバーオリンピックの開会式をTVで見ながら感じるものがあった。大げさな構成だとは思ったが瞼の裏がちょっと暑くもなった。カナダの人々の自然を憧憬を籠めて慈しむ心と、多民族国家であることへの誇り、そしてオリンピックは国を越えたアスリートの闘いだが祭典でもあることだ。
IOCのロゲ会長はあえてこういった。不正行為を行ってはいけない。そして公用語の英語とフランス語で挨拶のコトバを述べた。選手の宣誓でも不正を行わずに闘うと宣言した。今の世界の状況が生々しく表現されると共に、一緒に競う若者への期待と願いが込められたが、僕の感じたのは、いまさらとは思うもののオリンピックが多様な民族の祭典だということだ。
既に38年前にもなる1972年、札幌大会宮の森ジャンプ台での70メートル級、笠谷、青野、金野、藤沢の完全制覇はその裏にあった努力が繰り返して報道され、いつまでも忘れ難くなったが、ふと今思うとこのオリンピックの何処にも「アイヌ民族」の姿はなかった。
僕が初めて建築専門学校の設計課題講評のために北海道を訪れたとき、プレゼントされた分厚い本がある。「アイヌ神謡集 を読みとく」(片山龍峰著 草風館)。
アイヌ神謡集は著者知里幸恵生誕100周年を記念して2003年に刊行されたアイヌの神謡(カムイユカラ)を、標準語と英語訳を右ページに記し、左ページにはカタカナでアイヌ語を、その文字の下に発音をローマ字で表記して読みとけるようにした研究書とも言えるが、文字を持たなかったアイヌ文化を認識して欲しいという願いのこもった著作だ。
沖縄にも沖縄の言葉があって、その語感は琉球弧といわれる島と琉球王朝の文化を想起させて味わい深いが、それは方言として排除された歴史がある。改めて多様な人の生き方を考えさせられるのである。
琉球民族という言い方も今なお残っているが(沖縄民俗辞典・吉川弘文館)、文化人類学では日本民族はないという。それだけに僕たちはこの種の問題意識に疎いが、アイヌがつい最近民族として認知されたことを当然だと思うものの、この問題を大切にしたいし考えていきたい。僕たち日本人ってなんなのだろうかとか!
オリンピックを単純に民族の祭典という言い方をしてはいけないのかもしれない。
バンクーバーオリンピックはそろそろ終幕を迎えるが、祭典とはいえ様々な闘いの、そして人技とは思えないドラマに満ちている。それに心を打たれる。
回転の皆川賢太郎がコースアウトして、「何年もやってきて一瞬にして終わったのは一体何だったんだろう」と述懐した。一瞬情けない発言だと思ったが彼の思いは深い。
そうだ、一体なんだったのだろう!
石原都知事が銀や銅メダルをとって大騒ぎをするのは情けないというような趣旨の発言をしたと新聞報道されたが、選手のオリンピックに臨める事になるまでのドキュメントが、マスコミサイドで囃し立てられるように報道される昨今の状況に呼応する発言とは思う。
それでもフィギュアスケートのエキビジョン・フィナーレを見ていて目頭が暑くなった。勝てばいいと言うものでもない。
開会式がはるかな過去のような気もしてきた。