日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

春の夜に「エミリー・サンデー」を!

2013-03-23 23:41:19 | 東北考
数日前の建築学会で行われた歴史研究者の委員会で、積もった雪が凍って山になっていると聞いたばかり、北海道から来た委員は今年は寒いので溶けないのだと嘆く。今朝のウエザー・リポートではその札幌は雪、傘のいらないさらさらの雪なのだろうかと思いを馳せる。
それなのにこちらは桜が満開だ。ケヤキの枝の先端にも新芽も芽吹いた。春たけなわ、そんな一夜、「エミリー・サンデー」に聴きほれる。娘が先週末置いていったCDだ。

ヘブンからスタートし、ボーナストラックとして、14曲目にシンガーソングライターの掠れた声が魅力的なラビリンスと競演した「ベニース・ユア・ビューティフル」と最後に、心に浸み込むエミリー・サンデーがピアノで弾き語りをしたジョン・レノンの「イマジン」が収録されているアルバムである。

エミリーは、1987年にスコットランドの北部の小さな村に、ザンビア人の父と英国人の母のもとに生まれ、意人種の結婚に対する偏見で苦労する両親を見て育った。4曲目に収録されている「マウンテン」ではそんな両親の物語を綴ったという。
そのエミリーは、昨2012年のロンドンオリンピックのセレモニーに登場した。ライナーノートを記した服部のりこ氏はこう書く。開会式と閉会式の両方に登場するのは極めて異例なことで、生中継のTV画面には競技を終えてうれし涙、悔し涙を流す選手の顔が次々と写し出されていった(が)全ての涙が美しく・・(その真意を伝えるためには)「エミリーの声と歌に込められているメッセージが必要だったのだ」。

エミリーの歌にぞっこんになっている僕に明日の法事のために来た娘が、僕のPCに、エミリー・サンデーのライブを中継するユーチューブを落とし込んでくれた。会場に一杯の若者たちの、笑顔を浮かべながらエミリーの声にあわせて歌う姿が心に残る。<余話・ミューズが大好きな娘が一言。でもね、ロンドンオリンピックの公式ミュージシャンはミューズだからね!(笑)>

ところで僕が気に入った曲のひとつは「CLOWN」だ。
「I’llbe your clown」としり上がりに囁くような歌声にしびれる。

東北を・・(11)来年はいい年になりますように!

2012-12-30 23:12:26 | 東北考
ベイシーでは、世界に知られるJAZZ界オーソリティの演奏がなされてきたことでも名を知られているが、ライヴハウスではない。
自社のつくったJBLのスピーカの音を聴きにアメリカから来た社長が、自社先達のつくった音に聴き入って驚嘆し、席を離れなかったというエピソードもまたよく知られている、と書きたいのは石山修武さんの著作でも伝えられているからだ。
ところで、あのカウント・ベイシーがここへきて演奏した日と、僕の新婚旅行の車中で出会った日がほぼ重なるような気もしていた。あの時、盛岡での公演があることを僕は知っていたからだ。

菅原さんとの話が弾み、寒くて演奏するほうも聴く僕たちも、震えながらオーバーを着てたなあ!そんなこともあったと懐かしそうにいわれると、さて我が新婚旅行はそんなに寒かったかなあ!と時系列がやや怪しくなる。
リアス・アーク撮影の話を切っ掛けに、菅原さんの撮ったカウント・ベイシーの写真を使ったレコードジャケットも拝見した。味わいのある笑顔のベイシーのその写真もなかなかいい。まさしく写真を撮る人でもあるのだ。ライカで、無論フイルムで。

テーブルの上に書きかけの原稿用紙がある。さりげなく太いモンブランが置いてある。朝日新聞岩手版に長年連載しているコラム(エッセイ)、今夜中に送れといわれていると苦笑している。2編の新聞記事のコピーをもらったが、バーナード・リーチとのひょんな出会いの一側面をひとひねりした引きずり込まれるような文章だ。菅原さんは書く人でもあるのだ。

とつらつら書き記していたら明日は大晦日、時の経つのは早い。寒くなった。政権が変わりいやな予感もするが、来年はいい年になりますように!

<写真 ベイシーの外壁>

年の瀬や! はまだ早いが・・・

2012-12-22 23:35:35 | 東北考
気が付いたら冬至も過ぎて年の瀬を迎えることになった。時の刻みは変わらないのに、歳をとると共に時の過ぎるのが早く感じられるのは何故なのだろう!
ゆく年や・・・と書き出して一文をものにしたくなるが、四国での庁舎保存改修のための委員会出席など、まだまだ年内にやることが幾つもある。
行く年と新しい年を思って心を澄ますのは大晦日にならないと無理だろう。

さてこの数日。

シーザ・ペリが外観設計を担当したアークヒルズ仙石山レジデンスを、森飛鳥さんに案内していただいて見学。東京オペラシティアートギャラリーで「篠山紀信展 写真力」を観た。建築学会にてDOCOMOMOの幹事会(対応WG)。従兄弟の奥様の葬儀。1月2日にリニューアルオープンされる東京国立博物館 東洋館のプレス発表に参加、展示されている作品群に魅入る。JIAの保存問題委員会WGに臨み、関東甲信越支部の委員会とは言え全国の保存問題に目を向けて活動の視野を広げてほしいと、OBとして進言、そのあと行く年を思って一杯、忘年会である。

もう一つ、中村文美編集長に同行いただいて、早稲田大学に石山修武教授を訪ねた。建築ジャーナル誌の2013年1月号から連載が始まる「建築家模様」の取材・撮影のためだ。心深く刻みこまれている幾つもの想いが更に蓄積された。

昨12月21日、仕事場へ向かう沿道の欅がすっかり裸になった。

東北を・・(10)続:ベイシーの菅原正二と石山修武-

2012-12-16 13:52:13 | 東北考

ベイシーの近くにある市営駐車場に車を入れる。5時だ。3時には店に居る、とNETで案内されていたが電気もついていないしレンガ壁に貼ってあるポスターがめくれたままになっていて、開いている様子がない。

東北巡り最終日、ベイシーに行く前に新婚旅行のとき訪れた平泉・中尊寺を訪ねることにした。
妻君は中尊寺に行ったんだつけ!なんて言っている。隣の毛越寺(もうつうじ)の近くで、大学の同級生が神代雄一郎研の学生をつれて発掘をやっているのに出っくわした。でも無論妻君は一編の記憶もないという。
境内を歩きながら僕の記憶もだんだんあやふやになって行くのには参った。数十年前の境内の景色がどこか違う!

さて30分経ってもベイシーの様子が変わらない。駄目かと思ったがふと思いついて電話をしてみた。居た、菅原さんが。
「石山修武さんの知人で・・」といったら、鍵開いてるから入ってきちゃってという。
2人の知人と話し込んでいる。車のホイールがとか、エンジンのメカニックシステムが変わってとか、アナログの話だが時折最先端技術に話が飛ぶ。やけに面白い。
この猛暑にくたびれ果てたので今日は臨時休業したのだそうだ。僕はろくな挨拶もしないまま何となく話の輪に加わった。

1時間ほどして二人が帰り、少し話し込んで僕もそろそろと遠慮しようとしたらそんなこと言わないでと「野口久光」の本を持ってきた。
石山さんはご自身のHPで、菅原さんは野口久光がどうだとこうだといっていたとぶっきらぼうに書いていたが、映画評論家でもある故野口を師と仰ぐ菅原さんの師への思いに溢れた話も面白く、また映画のポスターなどが収録されているこの本もまた格別で、見入ってしまった。

菅原さんの撮ったリアス・アークの写真が壁に掛けてある。夜を徹して日の出を待ち伏せて撮った写真だ。
写真家藤塚光政さんからこのポジションで日の出を撮りたいので了解してほしいといわれものの、太陽がここにこなかったと苦笑されたというエピソードは知られているのかもしれないが、先日のセミナーで、京都の迎賓館の撮影の折、屋根のここに月がいる光景を狙ったが、なかなかここにこなくてねえ!と会場を沸かせた村井修さんのお話を、僕はこの一文を書きながら思い出している。

(写真・米紙の壁に張られたポスター  この項もう一編続く)

東北を・・(9)ベイシーの菅原正二と石山修武

2012-12-09 12:28:55 | 東北考
4年前になる2008年、石山修武(早稲田大学教授)の建築展「建築が見る夢」が世田谷美術館で行われた。発刊されたカタログ編で、鈴木博之は建築学会賞を得た気仙沼のリアス・アーク美術館(1994)に触れ、こう書く。
「新しいエポックを開いた」と建築家としての軌跡を捉えたうえで、「仙台で一緒に仕事をしたときにコーヒーでも飲んで帰ろうというのでついていくと、彼は仙台から一関のベイシーまでコーヒーを飲みに行くのであった」。そして「このくらいの距離感は、彼にはなんでもないとないらしい」と鬼才の一端を披露する。

さらに付け加えると、石山は二冊組のもう一冊の石山自身の書く「物語編」では『ジャズ喫茶ベイシー物語・音の神殿計画』という一項目を設けた。そこで率直に書く。「オーディオマニアでもなく、モダーン・ジャズ・フアンでもないが、それでもベイシーなのは、菅原正二という人間に深い興味を抱くからなのだ」と。

いつの頃からだろうか僕は、「ベイシー」の存在を知っていた。だがこの東北巡りでベイシーに行こうと思ったのは、この鈴木博之さんの一文を目にしたからである。
それはつまり、何故鈴木博之が石山に惹かれ、しかも難波和彦との3人組で、石山のブログというかHPでやり取りをしているのかという好奇心を解き明かしたいという想いがあった。

そしてもう一つ、新婚旅行で東北を巡ったときの列車で、カーメン・マックレイ+カウント・ベイシーの一団と乗り合わせたことを思い出していたからでもある。
一関のベイシーは、そのカウント・ベイシーのベイシーである。

登米の後小岩さんに案内してもらい、震災修復がなされて一部を開館していたリアス・アーク美術館を訪ねた。ベイシーを訪ねる前日である。菅原さんに会うための前段でもある。
美術館は気仙沼市街地からやや距離を置いた丘陵地に埋め込まれていて、ジュラルミンという鋼体が樹木や開かれた傾斜地に存在していて自然環境との違和感がなく、当たり前のように建っているのが当たり前なのだった。(この項続く)

東北を・・(8)近代建築文化を継承したまち・登米

2012-11-14 17:10:40 | 東北考

仙台藩は1601年(慶長5年)伊達政宗を藩主として誕生した。関が原の戦いの翌年である。
歴史を紐解くと、仙台藩の誕生に伴って登米は仙台藩に組み込まれることになったという。
今さらいうことでもないが、我は歴史に疎いなあ!となんとなくがっかりするのは、多分独眼竜伊達正宗のイメージが強くて、親しみを込めて伊達藩とも言われるというその伊達藩の登米と思い込んでいた節がある。仙台藩という言い方に馴染んでいない。
でもまあそんなことはさておいて、410年を経た現在の登米には、長い歴史の一時期を記憶した明治時代の建造物が幾つも残されている。

例えば近代化遺産、警察署庁舎が当時の警察資料館となっているし、重要文化財になった木造2階建ての大きな校舎「旧登米(とよま)高等尋常小学校」(明治21年・1886)は、当時の教育に関する資料展示がなされている教育資料館として魅力的な姿を僕たちに見せてくれる。

偶然というか縁(えにし)があるのだと思ったのは、東京に戻って事務所の机に置いてあった`建築東京10月号`(東京建築士会の機関誌)をめくったら、近代化遺産のカタチと題したこの小学校の、写真家増田彰久さんの写真と文が乗っていた。
設計は山添喜三郎という技師で、明治6年明治政府がウイーンで開催された万国博覧会に参加した時に日本館を建てた棟梁に大工として同行し、その後1年ほどヨーロッパにとどまって西洋館を学び、帰国して宮城県の技師になって手掛けたのがこの学校なのだと書いてある。
この建築には、つくった人の気負い(そこが面白いと思う)があるような気もしていたが、なるほどと得心した。調べたのはあの藤森照信さんとのこと、さすがにすごい建築探偵だと増田さんは添え書きをしている。

この旧小学校は、近々修復がなされると聞いたが、漆喰壁の一部が地震によって剥落したり、平屋部分が歪んでいたものの、大きな被害は無い様だ。
まち中に人気が少なくてちょっぴり気にはなったものの、登米は(この一角を宮城の明治村と観光パンフレットに記載してある)歴史を内在した落ち着いたまちだ。こういう土地柄が`森舞台`をつくらせたのだと納得し、岩手県境に近いこの地に近代建築文化が根付いていることに嬉しくなった。
昼食は、この地の名物「油麩」を煮込んだ油麩丼だ。油?を食べるのかと思ったが、意外とあっさりしていてなかなか旨い。我が妻君は、食べたことはないけどここの名物だということは知ってるよ!という。ここはやはり東北なのだ。

登米を訪れてなんとなくホッとするのは、当日森舞台を担当した女性や、警察資料館で好奇心が抑え切れなくて聞いた質問に、分からないことがあると、あちこちに問い合わせをしてくれた女性の笑顔に見られるように、これらの施設の管理に関わる人たちのゆったりとした暖かさである。それがごく当たり前の日常なのだ。
いま僕は、このひと時を思い起こしながら、この笑顔と暖かい志があれば、ここに未来があると言ってみたくなっている。


東北を・・(7)創ること 地に馴染む隈研吾の森舞台

2012-11-03 23:28:38 | 東北考

岩手県との県境に近い宮城県登米市にある森舞台(伝統芸能伝承館)に行った。この地に伝わる薪能や神楽、とよま囃子(登米市の市内にある登米まちは、とめではなくて、とよままちという)などの伝統芸能を奉納する能舞台である。
この能舞台と見所などを設計した隈研吾はこう述べる。
「舞台と橋掛かりの前の白洲という場に、奥に拡がる森の闇に繋がるように黒い砂を敷きこんだ。そして資料館を左手の下につくり、段々になったその上に小さく砕いた黒い石を敷き、その段のエッジステンレスのバーで押さえ、黒石を水に見立てて水上の能舞台にした」。

水上能舞台の伝統様式を継承して能舞台の下には腰板を張らなかったという。覗き込むと舞台の床の音響のために置いた甕が見える。1996年に建ててから18年を経てこの能舞台は、舞台の奥に千住博が描いた老松と若竹鏡板とともにくすんだグレーに変色し、すっかりこの場の自然環境に馴染んでいる。栃木県の馬頭町にある広重美術館の変色した木々と同じ光景だ。

隈さんはこの建築で建築学会賞を得たが、舞台と広い回廊のシャープな庇のある見所との間の黒い砂には、二つの向かい合うものの間にある亀裂が建築を創るときの原型としてあって、ここでもそれを意識したという。言わんとすることは、この時を経てきた能舞台によって地に馴染むながらも、僕の中にもいつもある「風土」を建築と言う形にしていく時の言語として得心するのだ。

この「東北へ・・」のシリーズの冒頭に書いたが、ここを訪れたときに気仙沼の小学校の生徒たちが先生に引率されて訪ねてきていて、見所の縁側に座り込んでわいわいとはしゃぎながらお弁当を食べていた。
帰るときに資料館にいる僕たちをガラス越しに覗き込み、笑顔で手を振る。その楽しそうな姿になんともうれしくなったが、先生と管理をするおばさんに聞くと、この中には仮設住宅に住む子が居るのだと言う。一瞬言葉が出なかったが、バスが見えなくなっても、伸び上がって手を振り続けていたおばさんの姿に涙が出そうになった。

この建築は、地元の能楽など伝統芸能を継承していく人たちだけではなく、この地域とその周辺の人々の大きな支えになっているのだろう。
感じ取るものが沢山あり、思い立ったら出かけることだと改めて思ったものだ。

<追記>
友人mさんからのコメントに返信を書きながら感じていたのは、隈さんが、裏の森の闇とのつながりの中で水に見立てた黒い砂や石に浮かぶこの能舞台の魅力とその真髄は、夜に行われる薪能を見ないと味わえないないのではないかというおもいなのだが、さてそういう機会をつくることはできるものか!

東北を・・(6)小屋取港から見る「女川原子力発電所」

2012-11-01 13:21:28 | 東北考

女川町からひと山越える小屋取に向かった。坂道を登り始めた右手の傾斜地に、プレハブで建てた二棟の仮設住宅があった。住宅の見えない山間地で近くにコンビニなどの店舗もない。坂がきついので自転車も使えないだろうしバス停もない。周辺に人気が感じられないがどうやって生活しているのだろうと気になった。

豊かな山林の中を原発建設のために拡幅整備された曲がりくねった道路を走りながら、20年前にこの道を夜中に7時間も歩いて集落に取材に行ったという小岩さんの話を聞く。何をしているのだと、通りかかった村民にいぶしかられ、「まあ乗ってけや」と同乗させてもらい、仕方がないなあ!と自宅に泊めてもらったこともあったという。車を買う金がなかったのだ。
通ううちに村民の信頼を得ていったのだと思うが、その後意を決してスクーターを手に入れたという小岩さんの今の車は、中古の小ぶりの四駆である。

この道の下の沿岸沿いには、横浦や飯子浜という集落と漁港がある。しかし2011・3・11。これらの小さな集落はほぼ壊滅してしまったという。

小さな堤防があり、晴天の中で数隻の漁船が舫っている小屋取港のさざ波のたつ海の色が鮮やかだ。でもここで魚を釣ることはできない。気になっている対岸の逆光の中に見える女川原子力発電所は、何事もないような姿でひっそりとたたずんでいた。無論人気はない。
その東北電力女川原発。巨大地震と津波にもかかわらず安全に停止したと伝えられ、HPにもそのように記載されているが、5系統ある電源のうち4系統が落ち、翌月4月7日の余震でも4系統が落ちた。
安全停止したのではなく、かろうじて止まったと小岩さんも言う。

帰りの山林の中で奇妙だが心に残る光景を目にした。道路は樹林が伐り開かれて時折日差しが注がれる。その中を車の高さで「シロセキレイ」が右に左に舞ながら僕たちを誘導してくれるのだ。スクーターで走った小岩さんは何度かそういう体験をしていて、シロセキレイにはそういう習性があるようだという。
あれからひと月を経た。小鳥が嬉々として舞う様子がさらに鮮やかに、この一文を書いている僕の目の前に浮かび上がるのだ。


東北を・・(5)石巻から女川港へ

2012-10-27 14:14:12 | 東北考

崩れ落ちそうなまま無人の家屋がポツンポツンと建っている石巻に立ちつくしながら、既視感に囚われていた。この光景はどこかで見たことがある。
草原の中のところどころにコンクリートの基礎が残骸として放置されていて、ブルドーザーのキャタピラの跡が地面にこびりついたりしている。ここには木造による、住宅産業企業による住宅群があったのだと憶測するが、何故かその姿と現状が重なり合わない。
晴天。晴天なのに人がいない。当たり前のことなのだが、いま僕はいつの時代の何処にいるのかと不安になる。

石巻を出てまだところどころで工事がなされているが、しっかりと舗装改修がされた街道を、小岩さんの車で女川に向かった。まずなにを置いても路を直したその行為は凄いと小岩さんと語り合う。街道沿いの巨大な工場群は、何事も無かったように作動しているように見えてしまうが、それでも一瞬ほっとする。

女川の、TVや新聞で見ていた津波の引き潮で倒れた鉄筋コンクリート造の建物が、沿岸の整地され広場に横たわっている。つらい光景ではあるがあっけらかんとしていて奇妙な違和感がある。

海のまち、海の村落は、丹後半島の伊根や静岡県の興津、そして少し形は違うが僕が小学生時代を過ごした天草下田村(現天草市)のように、沿岸沿いに建ち並ぶ家屋の隙間からちらりと見える海、その潮風の匂いが感じ取れるものだ。それが海のまち。

女川が立ち直るのはその姿と匂いが戻ったときだといいたくなる。女川のこの姿の向かいに見える女川漁港に立ちよった。
そこで巨大地震は地盤沈下を起こすのだと実感する。改修された道路が一見盛り上がっているからだ。そして大潮の時期が近づいているからなのか、ひたひたと潮がその道路の周辺に打ち寄せている。
漁港では秋刀魚の水上げがされていて活気があり、働く人たちの笑顔がまぶしい。水揚げ量は嘗て日本一だったことがあるのだ。
漁港が息づいてきたことにほっとしたが、でもそれで女川が生き返ったとはいえないことを考える。

東北を・・(4) 風土と前川國男の福島教育会館

2012-10-14 14:12:11 | 東北考

講堂の天井が落ち、外壁の一部が被災したという、既に56年前にもなる1956年に建てられた「福島教育会館」を見ておきたいというのもこの度の目的の一つだった。
この建築については、数多くの写真や解説文によって解っているような気がしているものの、福島市に横たわる大河阿武隈川や周辺の山並みとの対比についての記述を読んだ記憶がなく気になっていた。
それともう一つ、建築家前川國男が組織しこの建築を設計をした「ミド同人」の存在である。例えば前川の代表作の一つ神奈川県立図書館・音楽堂とこの建築の何がどう違うのかと気になっていた。ミド同人には前川自身も名を連ねているからだ。

DOCOMOMO100選に選定したこの建築を、前川事務所のOBで京都工業繊維大の松隈洋教授は100選展のカタログでこう述べる。
「阿武隈沿いに建てられた講堂や会議室からなる教育文化施設。火災によって消失した木造の旧館の再建を願う教職員の寄付によって、厳しい予算の中で建設された。そのため、建物は、当時高価だった鉄骨を一切使わずに、波打つ形のシェル構造の屋根と折板のジグザグな壁とを組み合わせた大胆な鉄筋コンクリート構造で建てられ、独特な外観が生み出されている」。そして「・・・簡素で骨太な建築が目指された」とある。

この解説文が興味深いのは、終戦後11年しか経っていない復興時期の鉄骨がコンクリートでつくるよりも高価だという社会状況が読み取れることと、僕には異論のある「骨太な建築」という一言である。更に`独特な外観`としかない記述が気になる。

講堂の屋根の緩やかに波打つシェルは、阿武隈川を挟んだ山並みと呼応していると僕は感じる。時代の先端を行くという戦後のモダニズム建築風潮の中で、前川は短絡的そう述べることを意識的にしなかったのではないか。そういう時代だったのだと僕は考えるのだ。

そして駐車場になっている前庭から見るこの建築は、コンクリートの壁によって内部空間が塞がれているが、ロビーに入ると、打ち放しコンクリートによる細い柱が林立している横浜の「神奈川県立図書館・音楽堂」と類似しており、それを見て何故「骨太な」と表現するのかよくわからない。前川の風貌やある種の建築の重量感から前川の建築が骨骨太だと言うイメージ構成がなされているが、意外に軽やかな空間構成がなされていてそこが僕は好きなのだ、

さて「ミド同人」。
事実検証をしないまま、勝手な憶測を書いてみる。

アントニン・レーモンドの「夏の家」はよく知られている。夏になると軽井沢の夏の家に、気に入った所員を連れて立てこもって設計に没頭した。これに類したいきさつは松家仁之氏のデビュー作「火山のふもとで」と言う小説に(新潮2012年7月号)レーモンドに学んだ吉村順三と思われる建築家に置き換えて描かれている。こういう書き方が許されるのかと気になるが、気に入った建築家を引き連れて構成したのがミド同人なのではないかという憶測である。

戦後の社会構造の中での前川の本物の建築をつくりたいという思いの、建築の造り方の仕組みへの試行錯誤といってもいいのではないだろうか?

敬老の日という休日に講堂(ホール)の照明をつけて撮影をさせてくれた職員は、地震で痛んだ外壁の一部をALC板で応急措置をした経緯を説明してくれたが、ともあれは福島市の外れに建つこの建築は、風土との呼応を表現し難い戦後直後の建築界の様相や、前川という日本の建築を率いた建築家の一段面を僕たちに突きつけているのだ。

<写真 左奥に小さく見え隠れしている白い建築が、福島教育会館。右手に阿武隈川>