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日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

冬の日のボブ・ディランと衆議院選挙

2014-12-14 12:26:05 | 日々・音楽・BOOK

2014年12月14日、日曜日、選挙の日、晴天。

娘が持ってきたDVD「I‘MNOTTHERE」(2007年の作品)、ボブ・ディランの生き越し方を捉えた映画を見ながらこの一文を書きはじめた。
娘は来年の干支(えと)羊を書いてプリントごっこで我が家の年賀状をプリントしている。いつものことなので、色やその組み合わせにうるさい両親の言うことを面白がって!

6人によるボブ・ディランの一人、リチャードギアが出てきた。
聞いてくれ、俺たちは行くところが無いんだ(I´MNOTTTHERE)、不器用でね!そして暴徒に、悪党が悪党につかまった、真に自然なのは夢だけだ、こういう6人のボブ・ディランにボブ・ディランの唄がかぶさる。・・僕はもういない、僕は去る・・と!

さて選挙。選挙権を得てから五十数年、僕は棄権したことは一度もない。
僕の選挙区、投票に値する人物が居ないがそれでも出かける。年賀状が刷り終わったら娘は東京に戻り、投票に行くという。

ところで札幌。この秋にヒヤリングした上遠野克さんの稿を起稿するが、一昨日電話をしたら克さんが戻るのは夜遅くなりそうだとのこと、スタッフの(愛弟子)の橋村君とやり取りして気になって聞いたら5,6センチくらいの積雪、まだこんなものですといって写真を送ってくれた。一面の白雪、札幌は雪景色だ。さてこの雪は根雪になるのだろうか!

一杯のコーヒーから:bodumで!

2014-12-07 13:30:47 | 日々・音楽・BOOK

一杯のコーヒーから・・・というフレーズでこの一文を書き出そうとしてふと気がついたら、頭の中でこの歌を口ずさんでいた。
ちょっと調べてみたら、霧島昇とミス・コロンビアのデユエットでこの歌が唄われたのは1939年、昭和14年で75年も前になる。コーヒを一緒に飲んだのが切っ掛けで恋がはじまるという素朴な設定、などというと実も蓋もないということになってしまうが、それでも我が若き日を想うと、どこかでちくりと胸が痛んだりする。
僕の書き出そうと思ったのは、「一杯のコーヒーから僕の一日が始まる」というものだ。

そういう朝を迎える人は沢山いると思うが、慌しい朝の時間のなかで僕が淹れるコーヒーグッズ、豆を挽く白い[CARIOCA-MILL](National)と、赤色の「THE original FRENCH PRESS bodum」、これは御殿場のプレミアムで手に入れた。
海老名丸井の一階の店「カルディ」で買った豆をMILLで粗挽にしてbodumに入れ、お湯を注いで4分経ってからブランジャーで圧縮する。車で出かけるときには、このコーヒーを小さいポットに入れて持って出る。

この一文を書きながら飲んでいるのは、この秋の小樽のプレスカフェでも味わった「マンデリン」、インドネシアの豆である。味わい深いのだ。そして明日の朝は「ケニア」、或いは深煎りの「グアテマラ フレンチ」、煎り方が違い、味が違うので朝の気分できまる。

コーヒーを飲むときは、音楽があったほうがいい。いま聴いているのは、エンヤの「And Winter Game:雪と氷の旋律」である。

プレスカフェ・小樽2014

2014-11-16 12:18:51 | 日々・音楽・BOOK
一年振りなのにターマス(マスターです)は、つい昨日も会ったように微笑んで頷く。オッ!元気だなと思いながら、moroさんの隣に腰掛け、いつものように分厚いカウンターにそっと触れた。
moroさんは、インドネシアにしましたよ!という。彼の好きなコーヒー、マンデリンだ。無論OK!僕が気に入っていることを知っているからだ。
1年ぶりなので店に入る前に、車を降りてからほんのちょっと回りを歩いてみた。当たり前だが、当たり前のように変わっていない。ここにも僕の居場所がある。
今年の夕食は特製オムレツだ。

翼の王国/ANAで北海道へ

2014-10-31 12:59:10 | 日々・音楽・BOOK

10月31日。秋の真っ盛りの様な、冬の始まりの様な奇態な天気。雨が降ってきたと思ったら陽がさす。今日はハロウィンである。

ANAの今月の機内オーディオ番組、パーソナリティ:ローレンス・タンターのJAZZ。イヤホーンから流れてくるSOOTHING JAZZ FROM CONCORD MUSIC GROUPを、羽田と新千歳空港への行も帰りも楽しんだ。
SOOTHING、正しく心地よく、うとうとしながら繰り返し繰り返し聴きこむ。でもこの放送も今日で終わりだ。

演奏し、唄っているのは誰だろうと機内誌を覗き込む。クリフォード・ブラウン、ジョージ・ベンソン、コールマン・ホーキンス、それにダイアン・リーブスなど、なんとも懐かしいJAZZメンの名が連なっている。
10月25日(土)の行き便はギュウ詰・満席、B777-200の405席。いろいろと在って到着が30分遅れた。28日の帰りの便はB777-300の514席、ガラガラでのんびりと!

帰京便、定刻5分前に機体が動き出した。おやっ!と思ったがそのまますうっと浮かび上がる。

これから高度を落としますとのアナウンスで、眼下の暗闇の中にまたたく街の灯を覗き込んでいたら、木更津から連なる街灯の端に海蛍が間近に見えてきた。其のままスウーッと羽田空港に着陸。定刻より10分以上早い。
機長からのアナウンス。「数ある航空会社から、ANAをお選び頂きありがとうございます。皆様のご協力によりまして定刻より早く到着しました」。心持頭を下げながらマイクに向かう機長のにこやかな顔が浮かんできた。

バッグを取ろうと思ったが手が届かない。通路に並んでいる乗客がそっと降ろしてくれて間を空けてくれる。
なんだか日本も捨てたもんでもないと思いながら、可愛い客室乗務員に、沢山乗ってきたけど定刻より早く着いたのは初めてだよ!と声を掛けたら満面の笑みで、皆様のおかげです。

さて!疲れも吹っ飛んだ!と思ったもののそうはいかず、蓄積疲労で我が歳を考えることにもなった。

<行きの便 満席の機内>

腹心の友 花子とアンとジーター

2014-10-04 16:30:46 | 日々・音楽・BOOK

時の流れは速く、このようなことを書くのは、既に過去を振り返るような感じがしてきた。でも書いておきたい・
秋日和となった9月26日土曜日、「ジーター」コールの起った対戦相手レッドソックスの本拠地ボストン市にある フェンウェイ・パークでの、レッドソックス対ヤンキース戦である。テレビを見ながら「腹心の友」と言う一言を思い浮かべていた。NHKの朝ドラ「花子とアン」の最終回で、吉高由里子が扮する村岡花子が蓮子と亜矢子に対して送った言葉だ。
その前日、本拠地NY・ヤンキースタジアムで行う最後プレイで、対戦相手からも大きな拍手を受けて引退するジーター。野球だけが我が人生だと笑顔で述べるその姿を見ていると、野球を愛する人全てが、「我が腹心の友」だとジーターが言っているような感じがしてきたのだ。野球をやることが!とわが人生を振り返りながら特段の感慨を覚える。

<画面 本文と特段の関係はありません>

若き朋友 mさんの日常から

2014-05-11 23:33:48 | 日々・音楽・BOOK
mの日常(前半)2014-04-26  am5:50 目覚まし時計が鳴り、細君がTVを点ける。
5:55 NHK(TV)の天気予報が流れる
5:59 フジテレビにチャンネル変更、星占いを聞く
    *三田アナ、可愛いっすねー!(^^)v
6:15 細君が布団を出て朝食と弁当の支度開始
6:30 mがノソノソと布団を出る、朝食と支度
7:00~7:20 mが偉そうに「フェアレディZ」で出勤
9:00 会社始業(8時前には会社着)

mの日常(後半)
18:00 終業(この時間に退社することはまずナッシング)
 ~   残業(管理職につき休日出勤含め手当なし)
22:00 平均退社時刻
22:30 帰宅
 ~23:30 晩酌+夕食
23:30~24:00 入浴
24:00 就寝

このスケジュールは、僕の若き朋友、飲み友達でもある mさんの4月26日土曜日終日のスケジュールである。僕のこのブログのコメント欄に書いてくれたので読んだ人がいるかもしれないが、土曜日だというのにと驚いて電話をした。
土曜日は休日、でもほとんど休んだことがないという。彼は建築の設計事務所をつくって設計をやっていたが、資格を取り、確認審査機関へ転職したサッカーを愛する好男子だ。僕には到底出来ないことを見事に仕切る優れもの。<本稿掲載許可済み>

残業(管理職につき休日出勤含め手当なし)という括弧つきの一行に苦笑してしまう。
だがふと若き日の僕自身を振り返るとまったく同じことをやっていた。寝袋を用意していた所員もいたし(残業代払ったことなし!払ったらやっていけなくなるというのも情けないが)、僕も終電で帰って4時間ほど寝て事務所に出てくる繰り返しをやったりしたが、馬鹿ばかしくなって毛布を用意して事務所で寝てしまうこともあった。

夕食を所員たちと一緒に食べに行ったあと、ちょっと一服といって五目並べをやって今日は仕事やめた!ってなこともよくあった。
おそらく、建築の設計事務所の、ことに著名建築家のアトリエでの仕事の仕方は、五目並べは出来ないだろうが、今でも同じだろう。いやそうではなく建築にトライする志のある奴はみな・・・

大学での後輩、JIAで保存問題委員会の委員長を僕の後に引き継いだ篠田は、JIAの会合の後皆で軽く一杯やりながら食事をした後、毎回ちょっと事務所に寄るのでと、今でも同じようなことをやっている。
恐れ入る、というのが実感だが、「ものづくり」というのはそういうものだろう。
情けないが、流石に僕はそういうことのできる体力に自信がなくなってしまった。
でも(用があってだけど)好奇心には勝てず、全国・アチコチ出かけていってしまうが・・・

<写真 好奇心に駆られてということではないが、24日(5月)に那覇市民会館で行う「世界のなかの沖縄文化」と題したシンポをコーディネートするために沖縄に行くが、その沖縄文化の一齣>


沢木耕太郎の「ポーカー・フェイス」:ある日の出来事

2014-05-03 22:59:16 | 日々・音楽・BOOK
文庫本になった沢木耕太郎のエッセイ集「ポーカー・フェイス」を読みたいと思い、厚木駅から一駅三省堂のある海老名駅で降りた。階段を上り始めて定期(パスモ)を取り出そうと持ってポケットに手を入れたらそのケースがない。パスモだけでなくあらゆるカード、免許証、東海大学病院の診察券も入っている。一瞬パニック、多分顔は青くなっていただろう。階段を駆け下り、急行の通過待ちをしている電車に伸び乗った。

すぐに発車。乗っていたと思った車両を歩いたがそれらしき気配がない。一駅、座間で降りホームに駅員が居ないので階段を駆け上がって改札の窓口の係員をとっつかまえた。と思ったが、他の客の対応で待って欲しいと言ったままなかなか出てきてくれない。それから事情聴取。相模大野に着いたら遺失物がないか駅員が調べるという。
そこでふと思いついた。厚木の駅でベンチに座って電車を待ち、立ち上がったときに落としたのかもしれない。厚木駅に電話をしてくれたら、届いていた。
こんなにホッと息をついたことはなかった。思わず係員と握手をしたくなったが、下り電車が来ると言うので階段を駆け下りる。足の具合なんてかまっていられなかった。

厚木駅で駅員からは、若い学生がトイレに落ちていたと届けてくれたとのこと、そうだったのかと胸をなでおろした。さてと思ってしばし逡巡、海老名の改札を出て目当ての文庫本を手に入れた。そして読み始めてあっと思うことになる。

冒頭の一編は中国への旅を綴ったエピソードなのだが、タイトルは「男派と女派」。一見タイトルとは無関係だが、まずその旅で遭遇した泥棒の話から始まる。バスターミナルのベンチにフィルムや小額紙幣を入れたバッグを置いて、乗るバスの様子を見に行った一瞬の隙にバッグを盗まれる。それが出てきたと言う話だ。

旅の途中で自宅に電話を入れたら、日本大使館から電話があって北京大使館にそのバッグが届いていると言うびっくりすることが伝えられていた。そして帰りに北京大使館に寄ってバッグを受け取った沢木はこう書く。
「よく点検してみるときちんと盗まれていた」。でも盗まれたのは小額紙幣だけ、日本円にして10円とか5円といったていど、数にして3枚か4枚、それが全て消えていた。そして沢木はこう述べる。

『開けてみたらどうやら外国人の物で、領収書やチケットの類が大切そうに保存されている。もしかしたら大事なものなのかもしれない。このまま捨てたりしてはかわいそうだ。そう思ってくれたのかもしれない』。
そして優しい泥棒に当たったことになると結ぶ。
優しい泥棒という言葉の使い方に、沢木の優しい心根が汲み取れるような気がするが、僕は更に厳しい社会構造、そういう中であっても、中国の庶民の持つ「人」の本質のようなものが読み取れる。人ってそういうものだ。

そして昨夕、約束していた妻君と娘との会食の前に傷んでいるケースを取替えた。小田急デパートで選んだのはAquascutum。終生の友として愛用のつもり!長年の伴侶だった傷んだケースには敬意を表します。

さて、書いている今日は憲法記念日。9条を守ると宣言しておきたい。

土曜日の朝 花子とトンイ そして、こころ旅

2014-04-26 18:41:41 | 日々・音楽・BOOK

小さな風が吹き、新緑に満ち穏日差しがそそぐ土曜日、大嶺實清の手捻り「萱葺きの家」の後ろに、気にいっている六代目清水六兵衛の「菖蒲(あやめ)」の絵皿が置かれた。今月中に書かなくてはいけない3本の原稿を抱えているのに(あと4日しかない!)、ここに短文を書いておきたくなった。

今朝はこうやって始まった。
6時半に眼が覚める。寝不足、あと一眠り、と思いながらもトイレに行った後、新聞を取ってしまった。ボブ・ディランを音を絞ってかけ、新聞に眼を通し、うつらうつらとした。気がついたら7時55分。

もそもそと起き出して、浴槽にお湯を入れる水栓を捻り、NHK8時からの「花子とアン」を見る。昨朝の続きを見たくてこの時間に眼をあけていたかったがうまくいった。吉高由里子の花子と仲間由紀恵の葉山蓮子が終生の友になるとのナレーションにそういうことだろうと得心。
痛くなった腰を温めると少しはよくなるかと思って湯に浸る。それから「トンイ」だ。一度見ているのに、いつものことながらその再放送にしびれる。

花子とアンの始まるまえは、この8時半と言う時間にあわせて起きたものだ。珈琲をいれる。
妻細君が起きてきて朝飯の支度、と言ってもいつものようにパンだ。
DENONのアンプにスイッチを入れると流れてきたボブ・ディラン。そしてこの一文を書き始めた。ふと思い立って「優美堂」に電話。午後1時から、痛い腰の治療をしてもらうことにした。

そして「こころ旅」。
京都錦町の銭湯の前で、火野正平が読み上げる学生時代の思い出を語る手紙にはグッときた。思わず涙組む。無くなってしまった下宿や・町家の2階の広間を借り、寄り集ってくる同級生たちと錦町市場で安い食べ物を買って食事、雑魚寝をした朝この銭湯に仲間と湯に浸りに来たというエピソードだ。何故か心を打たれる「若き日」という一齣。火野の声も震えていた。

<写真 UPが夕方になってしまった>

ピート・シーガーの時代

2014-03-01 21:51:45 | 日々・音楽・BOOK
ほぼ一月前になる1月29日、アメリカのフォークソングの育ての親といわれる「ピート・シーガー」がニューヨークの病院で亡くなった。94歳だった。

ピート・シーガーの歌った「花はどこへいった」と「WE SHARU OVERCOME」(勝利は我らに)は口ずさむことが出来るくらい聴き込んだが、ピート・シーガーの歌を意識して聴いたという記憶はない。しかし訃報を聞いて瞬時に浮んだのは、公民権運動や環境問題に尽力した社会活動家としての氏の名前だ。同時に、JAZZに魅かれながらもジョーン・バエズやジュディ・コリンズそしてP・P・Mを聴きこんだ60年代の後半の我が青春を思う。そしてピート・シーガーのつくった歌を唄った多くのミュージシャンも、その歌とともに、ピート・シーガーのミュージシャンとしての志に魅せられていたということだ。

「花はどこへいった」はおそらくP・P・Mの歌を聴いて僕の中に留まっているのだと思う。そして大阪万博の広場で、アメリカから来た(P・P・M的な)フォークグループのコンサートをのんびりと聴いたことを、44年も前のことになるのに、つい最近のことのように思い出す。

改めてピート・シーガーの歌をしっかりと聴いてみたくなって図書館に行った。図書館ではCDの貸し出しもしているからだ。そして借りてきたのはジム・マッセルマン(アップルレコードの社長)がプロデユースした2枚組みの「The Songs of Pete Seeger」(アメリカのアップルシードの原版)である。

このCDは、ピート・シーガーが歌ってきた歌を、ピートの示唆を受けてジム・マッセルマンが選曲し、様々な歌手やグループによって歌い演奏したもので、1枚目の冒頭は「花はどこへいった」だ。トミー・サンズとドロレス・ケーンがオヤ!と思うほどゆったりとつぶやくようにうたい、それを支えるバックも少女たちによるコーラスものんびりと心を込めて二人に同化している。聴く僕は「天使のハンマー」と一枚目の最後の「ウイモウウエ」のウインドウエックと繰り返すそのバックコーラスに何故か会場(スタジオのはずなのに)から拍手が起こる様に、思わず身を躍らせてしまうのだ。

2枚目は、「WE SHARU OVERCOME」を、ブルース・スプリングステイーンがしっとりと歌って始まり、3曲目にジュディ・コリンズが「金の糸」を明るいキレイな声で切々と歌い上げていて惹き込まれた。どの歌手も、ブルース・スプリングステイーンも声を張り上げずに自分の思いを内に秘めて歌い、聴く僕の心に浸み込んで来る。

ピート・シーガーは、非暴力活動を表明して唄ってきたが、非暴力とはこういうことなのだ。だから大勢の歌手をひきつけて世界に伝わっていったのだろう。
アルバムの最後は、ピート・シーガーがここでが歌うただ一つの曲「私は未だ模索中」である。

塩野七生の「真夏の夜のジャズ」

2014-02-01 14:38:55 | 日々・音楽・BOOK
二つの建築誌に、写真とエッセイによる連載をしているからだとも言えないが、エッセイを読むことに僕はとっ捉まえられている。
無論、妻君が図書館から借りてくる宇佐江真理の「髪結い伊佐地捕り物余話」などの小説にものめりこみ、昨秋出版された12弾「名もなき日々を」には思わず涙ぐんだりしたが、僕の本棚には、吉行淳之介や開高健、沢木耕太郎など三氏の文庫本がひっそりと並んでいて、何度でも読んでくれと僕に呼びかけてくる。
そこに、イタリアの歴史と関わる人を主題として論考する「塩野七生」の本が加わりそうだ。と改めて思ったのは、18年前に出版され2年後に文庫化(新潮文庫)された塩野七生『人びとのかたち』を読み進めていて唸っているからだ。

このエッセイは見た『映画』を題材にして、人を、つまりはご自身を描いているのである。エッセイを書くということはそういうことだ。
つい最近会った僕のエッセイを読んだ建築家からもズバリ指摘された。だから(多分)人は文章・エッセイを書くのだろう。

ところで著作に、「あとがき」とか「解説」があれば、また「はじめに」という一文が添えられていればさっと眼を通してから本文に入るのが僕の流儀だが、この川本三郎の書いた「人びとのかたち」の解説を読み始めたら、「真夏の夜のジャズ」を塩野七生は映画館で12回も見たと書いてある。
この一節で僕の想いは遥か五十数年前になる若き日の僕と、ヨットハーバーの光景や波を切って大西洋を走るヨットの姿と共に、それを支えるような「ジミー・ジェフリー・スリー」の軽やかなスイングジャズの音が響き渡ってくるのだ。

僕のジャズは、中学3年か高校生になったばかりの時のラジオから流れてきたジャック・ティーガーデンによるデキシーに始まるが、僕の書棚の下部にチコ・ハミルトンのLPがあるのも、この真夏の夜のジャズでの演奏を聴いたからかもしれない。セロニアス・モンクはもしかしたら、スタンスは違うとはいえ、後年銀座のライブハウス「ジャンク」ではまった菊池雅章に繋がったのかもしれない。この映画は僕のJAZZの原風景なのだ。
塩野の描くアームストロングやジョージ・シアリング、ダイナ・ワシントンそして静かに黒人霊歌を歌うマヘリヤ・ジャクソン!ああ、あの時代の!

「あの時代のアメリカは幸福だった」と塩野は回顧する。
「酔うのに、ジャズとジンジャーエールとタバコだけで十分だった。麻薬もヴェトナムもエイズもまだなかった。ケネディが大統領に就任したのは1961年・・・ヴェトナム戦争が始まったのは1963年だっただろうか・・・・」
そしてこのエッセイをこう締めくくる。「(ドレス姿の観客の)イミテーション・ジュエリーのチカチカしていた時代のアメリカが、今の私には限りなくなつかしい・・・」

僕は今年の5月に、JAZZに触れ始めて今の僕を培った高校時代の同窓会を行う。僕より少し歳が上だがお茶目な塩野の慨嘆に胸が熱くなる。このエッセイを書いたのは1996年、僕が56歳のとき、そのときの僕は何を考えていたのかと18年前を思いやるのだ・・・

ところでこのブログを書いている僕の聴いている曲は、JAZZではなく、リヒテルの弾くバッハの平均律クラビヤ曲集第1巻である。何故かこの論考にふさわしいのだ。

ところで、塩野のこの一文のタイトルは「失われた時を求めて」である。