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日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

賀状の添え書き

2014-01-18 16:56:41 | 日々・音楽・BOOK
「月日が飛ぶように過ぎてゆく」という賀状の添え書きに、ふと己の新春を振り返り、既に今年の1月も半ばを過ぎてしまったのだと妙な実感を得る。送ってくれたご本人にはいい歳になったとの想いがあるようだが、僕より二周り近くも若い彼女に、それは僕の言うことだと返信したくなった。

先週末に、二つの建築誌連載のゲラ修正をして送ったばかり、次の締め切りは云々と念を押される新春、でも戴いた年賀状を拝見してホッとし、好いお正月になったと思えた添え書きがある。
内田祥哉先生からの一言、「昨年はご苦労をおかけしました」。

「建築家模様」で内田先生のお話をお聞きして掲載、ゲラ修正を戴いたが確認の電話を差し上げた時にはご不在。FAXでお礼の一言をお送りしたがそれでよかったのかと気になっていたからだ。戴いた御本には筆でサインを戴いたが、賀状にはその味わい深い文字が万年筆で書かれている。

そして一緒に保存運動をした、東京女子大学の哲学者・森一郎教授が東北大学に転進される最講義を受講した昨日(1月17日)、久し振りに東女を訪れた。忙中閑あり。
ところが「閑あり」どころか、聴いたこともなかった「ホッブス」というデカルトと同時代の近代哲学者の存在に心打たれることになった。新年、それもまた良しだと開き直る。
この最終講義も、先生の教え子、可愛い!院生からの賀状の添え書きの「来ていただけると先生が喜んで下さる」という案内によるものだ。

社会活動を終焉するので賀状は今年限りにします、という添え書きのされた賀状がある。母校建築学科の1年先輩からだ。功あり名を遂げた人の、にこやかな風貌が浮かび上がり、それもありなんと思ったりする。
もう一通、賀状は今年限りにして下さいとの添え書き。数年前にも一度戴いたが、僕が数十年前に設計した建築のオーナーの奥様からだ。竣工後にご主人が亡くなり、その後その建築も人手に渡ったがお元気でお過ごしされてきたことは知っているものの、長い間お会いしていない。いつまでもお健やかにと一言申し上げたくなった。

同じように、東大病院に家族以外では僕だけがお見舞いを許されたご主人が本社竣工直後に亡くなり、お葬式の時にその建築の周辺を一緒に車で回って斎場に向かったその奥様からは、「つくっていただいた建築も25年を経ましたが丁寧に使い続けており、仕事も順調です」という涙がでそうな添え書きの賀状を戴いた。この小ぶりな建築は僕の代表作の一つである。

身が引き締まるのは、A・レーモンドの設計した東京女子大学の東寮と旧体育館の保存活動でご一緒し、2010年5月15日に日本記者クラブに於いて行った有識者の会による緊急記者会見でも同席・ご意見をいただいた、平野健一郎(早稲田大学名誉教授・東京大学名誉教授)先生からの賀状の添え書きである。

「日本社会がグラグラと崩れていくようです。新しい設計図が欲しいです」。

<写真 久し振りに訪れた東京女子大学>

東海大学病院検診での事始 

2014-01-11 21:27:24 | 日々・音楽・BOOK
大方の人の事始めは、1月6日の月曜日だっただろう。まあ僕の事始めも右に倣い、と言いたいが、朝から東海大学病院行き、泌尿器科の定期検診だった。早めに行った採決室に人が溢れていて驚嘆、お年寄りの多いことにも溜息がでるが、人が見れば僕もその一人なのだろうか(苦笑)。
PSAの数値は0,02で何の問題もないが、こうやって新しい年が始まるのも一興である。

頼りにしているこの病院の職員もきびきびしていて好ましいが、待合室で聞こえてきた患者とやり取している看護師の言い方に苦笑する羽目になった。
「尿の採尿をお取りしてくださいますよう宜しいでしょうか?」。
思わず手帳を取り出して「変な言葉」とタイトルを書いてメモをした僕もどうか!と思わないでもないが、気になる、よろしいでしょうか?という丁寧語?は昨今あちこちで聞く。

午後になったが仕事始め。暮れにやっとこさ片付けてきれいになったPCのある机や製図版がとても気持ちがいい。今年が始まるのだと思う。

7日。七草粥。朝少し早くおきてごそごそとやっていると思ったら新年恒例の妻君の心尽くし。6日、7日と愛知芸大の耐震補強の件で、水津委員長はじめ担当者と頻繁にメールで意見交換を重ねる。

<写真 1月4日賀状を取りに事務所に行った後植田正治写真展を見に立ち寄った東京駅>

洞窟に響くヴァイアン、チェロとピアノの音

2013-11-24 15:19:33 | 日々・音楽・BOOK
壁に突起とも言いたくなる荒々しいコンクリート打ち放しの塊をしつらえた「東京文化会館小ホール」で、ジュゼッペ・シリアーノのヴァイアンと、岩崎淑のピアノが織り成す`マリリナ・ソナタ`を聴きながら、やはりこのホールは『洞窟』なのだと瞑目したくなった。
11月15日の岩崎淑が主宰する第37回ミュージック・イン・スタイル、コンサートでの感慨である。

ヴァイアンという楽器は、アコーディオンに似ているが鍵盤がなく、右指で弾くボタンは640個もあり、左手にもボタン、上部にもボタンがあって奏者は時折顎を使って弾きこむ。
奏者を紹介する淑とチェロの岩崎洸とのやり取りで、淑はアコーディオンだと思ってたら違うんですって!と会場を笑わせたが、次々と繰広げられる音の響きを聴き、この楽器を弾くシリアーノはイタリア音楽界を代表する奏者だと言うだけでなく名人、演奏しながら淑や洸と眼を交わし、時折笑みを浮べ、のめりこむように引くその姿に、この人はホントに音楽がすきなのだと、僕ものめりこむように見入り、聴き入った。

そしてこういう喜びを与えてくれるのは、このホールとのコラボレートあってのことだと感じていた。
カザルスホールも浜離宮朝日ホールの音も素晴らしく、そのシューボックススタイルも捨てがたいが、このホールは舞台に向かって天井が競りあがっていて、その下部の舞台で奏者が身を越して弾く。目の中には横置き屛風状の音響版があって、高い天井の下での奏者の姿は小さいが、むしろその奏者の姿に目線が集中するのは不思議といえば不思議である。
入るとコンクリートの壁は狭まっていくが天井が高くなっていってむしろ奥の深い広がりを感じるのだ。

洞窟。
設計した前川國男はこのホールをどういうイメージを持ってつくったのだろうか?

<余話>終演後のロビーで、洸さんと立ち話、僕は小澤征爾が振ったサイトウキネンオーケストラのコンサートで、引退したはずの大西順子のラプソディインブルーにしびれたが、そこで弾いている洸さんに見入ったなどなど。

NBC(長崎放送)の「あの人この歌ああ人生」

2013-11-09 15:25:22 | 日々・音楽・BOOK

「こんばんは。塚田恵子です。この番組は、毎週、ゲストの思い出の一曲を聴きながら、人生を語っていただきます・・・」という塚田アナウンサーの一言で始まる。

一昔前になるが、テレビ神奈川のアクセス・ナウという番組で「「蘇る光・20世紀の遺産」と題して、名の知れた評論家と対話をしながらテレビのスタジオで番組収録をするなど、数回のテレビ放送の体験をしたことがある。でもラジオは初めてなので好奇心が刺激された。
しかも、一曲を聞きながら「人生を語る」のだという。
長崎へフライトする前日、塚田さんと電話でやり取りしたら、長崎市公会堂トークの前日に一時間ほど下打ち合わせの時間が欲しいとのことだったのに「もういいです」ということになった。選曲も、問題意識も、話しっぷりも大丈夫だと言われてホッとした。

選んだ一曲は、ビル・エヴァンスを語るときに欠かせないアルバム「Waltz for Debby」の冒頭「MY FOOLISH HEART」。
寝るときによくかける僕の子守唄の一つでもあり、N.Yのビレッジ・ヴァンガードでのライブ録音でもあるからだ。番組でも述べたがN.Yに行った(行く)のは建築を見るためだが、ビレッジ・ヴァンガードに行きたいからでもある。

嘗て銀座にジャンクというライブハウスがあり、入り浸ったものだ。
僕は建築家だから、建築を語ることは、つまり「長崎市公会堂」を語ることは、僕の人生を語ることになる。同時に1950年後半から60年代・70年代という時代とその後の推移と重なるモダニズム建築の変遷とその時代のJAZZの世界を語ることもまた、僕の全ての来し越し方と多分晩年に至るまでの軌跡を語ることにもなるのだと感じている。

JAZZでなくても好きな音楽を語ること、同時に読んできた本を語ることも「人生を語る」ことになるのだろう。そこには数多くの人との触れ合いがあるからだ。この番組が人気があるというのがだんだん分かってくる。

この「あの人この歌ああ人生」の放送は、11月18日(月)の夕方,pm7:00~7:30とのこと。電波の届くのは長崎県と佐賀県と福岡の一部で、CDに録音して送ってもらえるが、ライブで聴くことができなくて残念だ。

長崎市公会堂の「さるく&トーク」には、雨の中150人ほどの人が参加してくれて一緒に館内を歩いて長崎市公会堂を巡る物語を語り合った。会場の人たちのこの建築を思う気持ちにも触れることができ、設計を担当した早稲田大学武基雄研のOBの渡辺満さんのこだわりに思わずニヤリとしたが、有意義なイベントになった。
主催者、林一馬長崎総科大教授や、建築家中村享一さん、それを支える人たちの尽力に心打たれる。僕たちの思いを行政サイドが真摯に受け留めてくれることを切実に願う。

僕は、昭和27年(1952年)に長崎中学に入学した。しかし2年生のときに転校して長崎を離れた。卒業をしていないので長崎中学の名簿に載っていない。願わくば、この放送を聴いた同級生がいて連絡してくれたらこれにまさる喜びはないのだが・・・
壇上で話しながら、密かに同級生に会えないものかと期待していたが、残念ながらその出会いはなかった。


岩崎淑というピアニスト・カロローザの演奏会

2013-10-27 17:47:45 | 日々・音楽・BOOK
「雨降って地固まる」とは言い難い昨今、今日は晴天、ひんやりとした秋日和である。この見事な羊雲を撮ったAKは昨朝、山形(寒河江)経由で仙台行き、晴れ女だったのに雨女といわれるかなあ!と気にしていたが、今日は仙台でも深い秋日和だろう。

雨の昨日、浜離宮朝日ホールへ出かけた。
岩崎淑さんから案内を戴いた「カロローザ第50回記念特別演奏会」を楽しむのだ。
小田急と都営大江戸線を乗り継いでの、ディック・フランシスと子息フェリックス・フランシス共作の第2段「祝宴」を読みながらの車中、無論イギリスの競馬との関係物語だが、主人公のモアトンはオーナーシェフ。でも奇妙に縁があると思ったのは相方・魅力的なキャロラインがビオラ奏者だったことだ。彼女はヴィオリストになったことについてこう言う。
「ヴィオラの甘美な音色に比べると、ヴァイオリンの音色は金属的なの!」。

プログラムの冒頭は、民谷加奈子のヒンデミット「ヴィオラとピアノのためのソナタ」。弦が切れるアクシデントがあったが勢いのある見事な演奏、民谷は何故ヴィオリストになったのだろうとキャロラインの一言を思い浮かべながら聴いていた。

初めて聞く名を聞いたロシア生まれの音楽家アレンスキーのピアノ三重奏第1番の第三楽章「非歌」にはグッと来てちょっぴり涙ぐんでしまった。後でプログラムを読むと、亡くなった教え子の名チェロ奏者への追悼の思いこめられていると書かれているが、そのしみじみとした想いの深い演奏だった。

魅力的な演奏が続いたが、圧巻は、尾西秀勝がラベルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」の後半部分を編曲(作曲といってもいいのかもしれない)した、4台のピアノを8人で弾いた(連弾:80本の指でとプログラムに書かれていて言い得て妙と思った)演奏だった。男性4人女性4人が入れ替わる演出もあり、岩崎淑さんからのメッセージは「尾西君はこれを機に作曲に演奏に邁進して欲しい・今日の公演は尾西君にとってのはじまりの音楽だ」という心のこもったものだった。尾西は、仙石ニューホールの館長も勤める俊英である。演奏の終わった後、演奏者が尾西に向いて大きな拍手を送っている様に心が打たれた。

そして淑さんがピアノを弾くドボルザークの「ピアノ五重奏曲イ長調op.81」は正しく大人の演奏、円熟・豊饒だった。緩急自在に、それを意識させることなく牽きこんでいく師岩崎淑を凌駕するでもなくついていくでもない4人の変幻自在の演奏に堪能する。そこに身をゆだねながら、僕は何を考えていたのだろうか!

カロローザの会は、岩崎淑に縁のある(岩崎淑門下とも言える)音楽家220人ほどのメンバーのいる音楽家集団、発足後32年になるという。淑さんとの出会いは「カザルスホール」の保存を目指すシンポをコーディネートしたことに始まった。数多くの音楽会にお誘い戴いたし、レーモンドの設計した高崎の音楽堂存続をテーマとしたシンポジウムにも、鈴木博之教授などと共にパネリストとしてお話いただいて、レーモンドがデザインしたというピアノで子犬のワルツなど弾いて頂いたりした。

公演のあとロビーで挨拶をする。2回の休憩をはさんで3時間半の饗宴、笑顔の淑さんの一言は「疲れたでしょう!」。

<文中敬称略>

都会の朝に

2013-09-07 21:47:23 | 日々・音楽・BOOK

鍵を忘れて事務所に入れない。妻君に電話をして「今何処?」と聞く。急行に乗り換えるために海老名駅のホームにいる。新宿に着くまでに1時間ちょっとだ。ふと思いついて近くの喫茶店「ブラジル」に入った。入ってみて分かった、この店初めてではない。妙なことだが鍵を忘れたことがあったんだとふと懐かしくなる。一段下がったフロアの席に腰掛けた

可愛いこの持ってきてくれたコーヒーを飲みながら、流れてくるピアノソロに耳を傾ける。その合間に、入った左手のテーブルの白髪の二人の四方山話が聞こえてきた。消費税、原発、テーマは生々しいが笑顔で取り交わす二人を見ると常連さん、町衆なのだ。松本の旅館「まるも」の喫茶店、町衆の拠り所、その朝の光景が浮ぶ。そうだ、京都のイノダ珈琲店の一角に、町の旦那衆の溜まる大きなテーブルがあって、新聞など広げたり談笑している様子を見ながら旅の風情を楽しんだりしたこともあった。
新宿にも、こういう都会の朝があるのだ。

さて、仕事だ。ノートを取り出し古材を使った移築的な新築家屋のディテールのスケッチに取り組む。繰り返し収まりを模索していた集大成的な寸法がぴたりと収まった。特段のことでもないごく当たり前の収め方なのだが。
ホッとした途端、締め切りの迫る建築家を伝える原稿が気になる。大阪の建築家、竹原義二さんの口から出たチャールス・ムーア。シーランチが瞬時に思い浮かぶと同時に、ムーアの作品集の表紙の彫刻的な装飾のある派手やかな写真が頭を掠めた。

ところで、この日から2,3日経っての妻君からの一言。
「アンタ、カギ、スペアヲ、フデバコに、イレトイタンジャナカッタッケ?」
そうだった。あった!


4000本安打

2013-08-24 18:34:30 | 日々・音楽・BOOK
イチローが4000本安打を打ってから3日を経た土曜日の今朝、ヤンキースのレイズとの試合を観る。黒田が投げて負けたが、イチローの打席のときに時折4000本安打達成時の映像が挟み込まれるものの、イチローが打席に立っても観衆からの何の反応も伝わってこなかった。米紙ではささやかな報道しかなされたかったとも聞く。でも総立ちになったヤンキースタジアムの観衆や累乗に駆け寄った選手たちの姿に、野球が好きでその場に立ち会った人たちの率直な気持ちが伝わってきて嬉しいものだった。今日の試合はレイズの本拠地のせいかもしれないが、ヒットが出なかったこともあり、4000本安打が通過点であるのも確かなことなのかもしれない。

その3日前の21日の朝、いつものようにTVのチャンネルを回す。
ヤンキースタジアムでのブルージェイス戦での第一打席の左翼へのクリーンヒットをリアルタイムで見て、いつものように、いつもの時間に本厚木からブルーのロマンスカーMSEに乗る。まだ夏休みの余波で賑やかな子供連れの家族の多い車中で、過ぎていく窓の外の風景をぼんやりと見ながら、人の可能性の無限のようなものを考えていた。

ピート・ローズは「4千本安打を認めない」と述べ、大リーガーのプライドを評したが、その論旨の中に、大リーガーは年間の試合数や時差や移動距離が違ってハード、同列には論じられないとある。しかし、言葉の違いや異なる風土、生活習慣の違う中でのプロとしての施業に僕は瞑目する。そしてプロとしてのとてつもない努力を思う。

イチローはリベラやジータと同じフィールドにいること自体が喜びだと言う。野球少年だ。でも時を経れば、それはベーブルースや、ゲーリック、或いはヨギ・ベラというキャッチャーと同じ舞台に立っていたということと同じことになるのかもしれない。そしてまたいずれ異国から来た偉人と同じ舞台で戦ったのだと多くの球人からイチローも言われることになるのだろう。


梅雨明け、猛暑、参院選、ダルビッシュ、そして紅秀峰と花は花咲く!

2013-07-07 12:57:31 | 日々・音楽・BOOK

雨が降らないのに「梅雨入り」宣言があり、猛暑になって関東甲信地方では西日本より一足早く、梅雨が明けたという。
都議選があって参院選の前章だとマスコミが囃し立てたが、都民ではない僕の中にはなにやら奇妙な嫌悪感が巣食った。その参院選が公示された。
新聞ではいつものことながら当落想定表示が始まり、それがほぼ当たったりすることを知っているので、何がしかの意欲がそがれ危機感もつのる。そしてアメリカのオールスターゲームに選ばれたダルビッシュがアストロズ戦先発して打たれた。打たれたということよりも、うつむいてベンチに戻る覇気のないその姿が気になった。
それでもTVのチャンネルを回さないのは、解説者大島康徳さんとアナウンサーのやり取りが興味深いからだ。アメリカ文化の一側面が浮かび上がってくる。と同時に、なにやらまだ行く先の見えない現代の世相を目にしているような気もしてくるのだ。
マイナス思考的で僕には似つかわしくないと思うものの、昨今の事象を身に受けて、何かの変わり目を感じているのだとの実感がある。

そこへ高校時代の友人から山形の「紅秀峰」が届いた。一服の清涼風、見事な美しいサクランボである。持つものは友人だ。
さらに点けっぱなしにしていたTVから「花は花咲く」プロジェクトによる歌と映像が流れてきた。一緒に口ずさみながら、こみ上げてくるものがある。

今そこにある危機 フェイスフル・スパイ(2007年小学館刊)

2013-05-26 11:50:10 | 日々・音楽・BOOK
ジョン・ウエルズはアルカイダに潜入したCIAの工作員である。
「フェイスフル・スパイ」の中でのジョン・ウエルズとオマー・ハドリという国際テロ組織の幹部とのやり取りを読んでいるうちに、イスラム原理主義者の怨念や実態、2001年の9・11の既に12年を経たミノル・ヤマザキの設計した2棟の超高層・世界貿易センタービルのショッキングな崩壊の様が思い浮かんできた。

さらにその年に東大本郷キャンパスで行われた建築学会の大会で、建築家林昌二さんのこの出来事に触れた建築講演を聴いたことなども想い起こした。林さんが、僕に向かって受けなかったなあ!と、苦笑、慨嘆したのが心にあるのだ。世代の変わり目を微妙に感じ取った一言だった。あの林昌二さんでも・・と。

林さんの話のテーマはミノル・ヤマサキの建築の在り方自体を引いてのあの事件だったと思うが、はっきりとは憶えていない。しかしご存命だったらボストンの事件や3.11についても、おそらく今の世代の有識者(最近よく言われる専門家!)では思いもよらない広い視野での独自の視点による辛口論評をお聞きできるのだが、と思ってしまうのだ。

この超高層崩壊の様相は、休日だったのでテレビに張り付き、現場中継(リアルタイム)の画面をリ見ていたのに、僕の中では多くの人が死んだあの現実がフィクションのような奇妙なイメージとしていまだに巣くっている。

「フェイスフル・スパイ」は、ニューヨークタイムス紙の記者アレックス・ベレンスンが2006年に書いた処女作で、翌2007年度のNWA新人賞を得たスパイ・スリラーである。

読みながら心がざわつき、読み終って考えるのは、これはフィクションではなくノンフィクションなのではないかという奇態な感慨だ。小説だから事件が起こる。そしてこの生々しいテロリスト設定は現実とは表裏一体、言うまでもなく頭に浮ぶのは、あのボストンマラソン時の爆発事件・テロである。小説「フェイスフル・スパイ」があの爆弾テロを、予測していたということになるのだ。
この小説は文庫化されている。長編で読み砕くのは大変だが、一読をお勧めしたい。これがいまの現実社会の一側面なのだろうとちょっと怖くなる。

房総半島巡りを書きたいのに、つい読んだ本のことになってしまう。ふと思いついてフェイスフル・スパイを読み、ハードボイルド文体が懐かしくなってきた。この小説は、いわゆるハードボイルドではなく、僕の好みともちょっぴり異なるのだが・・

「見上げた空の色」での宇江佐真理の生きること

2013-05-11 15:35:51 | 日々・音楽・BOOK
愛読している「髪結い伊三次」シリーズを書いている宇江佐真理は僕より9歳も若い函館人。この4月に発刊されたエッセイ集「見上げた空の色」(文芸春秋刊)を読み始めて、一瞬、何だ!ただのオバチャンじゃないかと思ったものだ。

「もの書き業は17年にもなるのに(2012年記述)人生で一番大事なものは小説を書くことだとは思っていない。それではお前の一番大事なものは何かと問われたら、日常生活と応える」。答えると書かないで応えるという文字を使うところに、含みを感じるが、宇江佐の愛する日常生活とは、
朝起きて、簡単な食事を摂り、三日に一度は部屋に掃除機をかけ、一週間に一度はトイレの掃除をして毎日洗濯をする。そして「小説の執筆は日常生活の付帯状況に過ぎない」とぶっきる。

建設業をやっている(大工さんというコトバもどこかにあった)夫に仕事も来ないなどと不景気のことしか書かない故郷函館は、それでも住めば都と思いを託す。だが、保存要望書を持って教育長や市議会議長と談判した函館の大切な建築、弥生小学校などには目も向けない。

ところがそういうそっけない記述を読み進めているうちに、五十三歳で死去した妹の壮絶な人生へ「棺に納められた妹は血の涙を流していた」とウッとつまって言葉が出ない一言を記す。そして淡々と、人は五十を過ぎたら無闇にがんばるべきでないと思う、と述べる。
五十歳、遥かに昔のこと、ふと体力の衰えを感じる己のことよりも、吾が娘の五十歳までの年月を考えるとドキッとし、僕の胸のどこかが喚き出す。

さらに「墓守娘の本音」と題したエッセイでは、八十三歳になる元気な母に、元気であるがためにいつまでも何時までも親の権利を主張してやまないと書き、生んでくれた人で育てた人だから大事にしなくてはいけないと思うが、「だが、もういやだ」、断じて実家の墓守はしない,母が亡くなって私がまだ生きていたら、実家の仏壇を処分して、敢えて親不孝の汚名を被る。それが春の私の覚悟だ、とする。
やはり宇江佐真理は己の人生に開き直っているのだ。だから僕の前に「髪結い伊三次」がいるのだ。

このエッセイ集からの引用になるが、どうしても書いておきたい「うた」がある。
「はるかなるおもい」の項の最後の一行。朝日歌壇に掲載された、須郷 柏(宮城県)氏のうた。

夫呼べば夫の声する娘を呼べば娘の声する閖上(ゆりあげ)の海。

建築ジャーナル誌に連載をしている「建築家模様」に登場していただいた建築家針生承一さんの設計をした火葬場のあるのが閖上なのだ。

<房総巡りを書き続けたいのですが、上記借用した本を図書館に返さなくてはいけないのでお先に記載しました>