日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

40年前のフィリピンへの旅に考える

2016-02-03 09:34:32 | 生きること
従兄に声をかけられて、フィリピンに行ったのは36歳のとき、それが僕の始めての海外旅行だった。横浜に立ち寄ってパスポートを受け取り成田に向かった。ちょうど40年前になる2月、遅咲きの海外渡航だったといまにして思うが、その後香港にはまったりして、韓国などと共に、東南アジアを中心に何度も出かけたものだ。
でも振り返ると、母を連れて初めて訪れた外国・フィリピンには格別の想いがあって、むしろ時を経るごとにそのときの様が想い起される。ことに亡くなって時の経つ母の涙姿が浮んでくることになった。

終戦の年1945年(昭和20年)8月17日マニラ地区のモンタルバン方面の戦闘に於いて戦死、という長崎地方世話部長(政府の所轄)から来た父の「死亡告知書」が、翌年昭和21年の元旦に、実家長崎の祖父から疎開先の柏(千葉県)に届いた。父の死去の様が読み取れるが(僕のこのブログ「生きること」2006・6-2007・6を参照ください)母は何もこのときに、とは言ったものの、いつまでもその死を認めることができなかったようだ。
祖父は一刻も早く僕たちに父の死を伝えたいという思いだったのではないかといまの僕は思うし父は、祖父の長男だったことにも想いを馳せる。従兄(母の姉の長男)は、父が出征した後のそういう僕たち家族を、見守っていてくれたのだ。

従兄はマニラで仕事のための小さなオフィスを持っていて、船で運んだ機材の陸揚げ許可がなされないのでマニラに事実確認と荷揚げ交渉のために訪比することになったのだった。商社の担当者にも状況を伝え、現地の役人との交渉に行くことに合わせて母と僕を誘ってくれたのだ。
余談だが、着いた日に係留されている船の様子を確認した後、役所にも同行させてもらい、この地での仕事をする様を垣間見た。翌日は商社の担当者を招いてゴルフ、僕も母を宿泊したマニラホテルに置いて、クラブや靴を借りてワンラウンド廻ったものだ。その夜はクラブへ、母と共に誘われたその様も僕の中に留まっている。

次の日、所員の車に乗って母と共にモンタルバンに連れて行ってもらった。その地の住民の方々にヒヤリングしくれたものの、父の亡くなったその様子を聞き取ることができなかった。死亡した場所、遺骨の様も聞き取れなかった。鳥取、島根の戦死した方々を祀るコンクリートブロックで作られた廟ともいえる建物があって、地元の男性が僕たちを見てカギを開けてくれたことを想い起こす。
でも印象深かったのは、ヒヤリングした数多くの方々の僕たちに対する「気の毒だね」とも思ってくれているような穏やかな姿が心に残っている。その後その地の教会に立ち寄って、神父にお願いをして追悼してもらい、その後毎日正午に一週間追悼の鐘を鳴らして欲しいとのお願いをした。

この40年も前になるひと時を、両陛下のフィリピン慰霊の旅の報道を目にして想い起している。
ことに、新聞報道で伝えられた、先の大戦でフィリピンが日米の戦場になったことに触れ、「貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。…私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」との一文を繰り返し読む。



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