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最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

蒸気機関車の煙 上

2019年04月04日 | 鉄道
 3月18日付の当ブログ記事にKさんからコメントをいただいた。こちらからお送りした写真ハガキの御礼で、写っている蒸気機関車の「煙突の左に見えるのは濃度測定板でしょうか?」というものだった。

1 Kさんに送ったハガキの写真 1971.3.25撮影
飯塚駅 D60-71

2 上の写真の拡大 1971.3.25

 お送りした写真は、飯塚駅に重連で到着した1762貨物列車の前の機関車を外すところを撮影したもの。後の機関車D60−32は煙だけしか見えない。ここからは平坦になるから機関車を一つにして運行する。この写真のねらいは、遠くにかすんでいる忠隈のボタ山である。この山は現存するが樹木が茂ってだいぶん雰囲気が変わってしまった。なお、この写真と同じ時に撮影した別の写真を「最後の蒸気機関車」シリーズの中で2012年9月15日に当ブログに掲載した。
 鉄道ファンとしては恥ずかしいことだが、そういう板について知らなかったので、調べてお返事をした。正式には「リンゲルマン煤煙濃度板」というもので、要するに機関車の出す煙が黒すぎることをおそれて、その測定(といっても肉眼で見て黒さをチェックする程度)をするときの比較するための板である。名前の割にはずいぶんアナログである。くわしくはネットで出てくる。なお、この文では機関車の進行方向に合わせて左右を書くので、問題の板は「煙突の右」と記すことになる。
 設置されたのは九州の蒸気機関車の一部だけらしいので、私が九州で撮った写真を見直してみた。蒸気機関車の時代には私は京都に住んでいた。九州に旅行したのは3回。1968年の旅行では蒸気機関車を撮影していない。写っているのは0枚、1969年3月の旅行で4枚、1971年3月から4月の旅行で39枚の計43枚あった。しかし、濃度板が見える写真は1971年のものにしかなかった。すべて筑豊本線で、飯塚駅で撮影したのが11枚、冷水峠越えの列車車内から撮った写真が7枚、それに場所のわからないもの数枚であった。思ったよりも多い。機関車の形式では、D60 D50 C55 に板の設置されているものがあった。

3 ちょっとマシな一枚 1971.3.25撮影 飯塚駅 D50-205


4 C55に設置された例 1971.3.25撮影 筑豊本線 C55-53

 このように、濃度板は意外にたくさん撮影されていた。それなのに知らなかったのは恥ずかしい限りである。
(「蒸気機関車の煙 下」につづく)

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2 コメント

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Unknown (昭ちゃん)
2019-04-06 06:35:06
 詳細なお知らせ有難うございます私の思い出は夏です。
窓を開けて乘る時代に窓際に腕を乗せると見る見るシャツのしわに煙に混ざる滓が溜まることです。
付随した鎧戸を下げれば暑いし最悪です。
トンネルに入るときは汽笛が鳴りますが開けた窓から車内に、、、
車掌さんも忙し車内でしたね。
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 (OK)
2019-04-06 09:28:22
11日に濃度板についてもう一回掲載しますのでご期待ください。
私の蒸気機関車・トンネル経験はたぶん1953年の中央本線で、名古屋から行くと最初にある定光寺駅手前の二つの短いトンネルでした。高校生の時代何度も土岐・瑞浪の化石採集のために通りました。窓を閉める社会的ルールは染み付いていますので、今でもトンネルに入ると一瞬気になります。
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