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古い本 その126 古典的論文 翼竜類4

2022年10月25日 | 化石
 三番目の材料のfossilworks では、ウィキと同じくCuvier, 1809が命名論文としているが、その論文のデータは記されていない。種・Pterodactylus antiquusの初出論文がSömmerring, 1812であることは、ここにも書いてあるが、この論文ではOrnithocephalus antiquusとしてあることは明記されていない。
 のちの話だが、Cuvierは下記の論文で(たぶん初めて)ラテン語化した属名 Pterodactylusを用いて、新種Pterodactylus longirostrisを記載した。
⚪︎ Cuvier, Georges, 1819. Pterodactylus longirostris. In Oken, Lorenz (ed.). Isis (oder Encyclopädische Zeitung) von Oken (in German). Jena : Expedition der Isis. pp. 1788-1795, Tafel 20. (Pterodactylus longirostris:in Oken, Lorenz 編、Isis (または百科時報) )

460 Cuvier, 1819 が掲載された「Isis」タイトル

461 Cuv1er, 1819. Pterodactylusの記されている1787ページ

 これは百科辞典のようなもので、かなり詳しい記載があるものの学術報告と言えるかどうか....。本文のデジタルファイルはドラッグできるがドイツ語のひげ文字なので、翻訳処理するには大幅に打ち直す必要があり、解読は時間がかかる。

462 Cuvier, 1819. P. 1787 ひげ文字で記された記述

463 Cuvier, 1819. Pterodactylusの見出し。一部を解読して打ち直したもの。下の方は原文で、画像処理して薄くしてある。そうしておいてその上に現代風に打ち込んでゆく。

 翼竜ではPterodactylus longirostrisP. brevirostris(後にCtenochasma elegansのシノニムとされた)の2種類が出てくる。この2種類のテキストに対応して1枚の図版があるが、デジタル化がうまくいっていないのでよく見えない。

 Pterodactylus属の命名についてここまででわかったことは、次のこと。
1. 1809年にCuvierが記した論文にはこの属名またはその起源となる名称は提示されていない。
2. 1812年に、Sömmerringによって種Ornithocephalus antiquusが記載された。この種は後にPterodactylus属の模式種とされている。
3. (2.とどちらが先かは不明)1812年にCuvierはPtero-dactyleという名称を使用したが、1809年の論文との命名上の関連は示していない。
4. 1815年にRafinesqueは分類表にPterodactylusを挙げた。命名者をCuvierとしたが、命名年は示していない。
3. 1819年にCuvierはPterodactylus longirostrisという新名を提唱した。ここでCuvierは初めてラテン語化した(属の名称として妥当な)名称を用いたことになる。

 では、属の命名の歴史から離れて、もとになった標本について研究史を追いかけてみよう。Cuvier, 1809 よりも前にこの標本に関する論文がある。
⚪︎ Collini, Cosimo Alessandro, 1784. Sur quelques Zoolithes du Cabinet d'Histoire naturelle de S. A. S. E. Palatine & de Bavière, à Mannheim. Acta Theodoro-Palatinae Mannheim (in French). 5 Physicum: 58–103 (1 plate). (Bavariaのファルツ選帝侯カール・テオドールのコレクション中のいくつかの動物化石について)(未入手)
 Cosimo Alessandro Collini (1727-1806) は、イタリア人の博物学者で、ドイツで研究を行っていた。この時にはファルツ選帝侯カール・テオドールのコレクション管理を任せられていた。この論文の1784年という発行年は非常に古く、この恐竜他の文献調査で出てきた中で唯一の1700年代のもの。この文献はインターネットで入手できなかったが、Cuvier, 1812 に6ページ以上にわたって長い記載部分の引用がされている。この記載はほぼ完全に保存された一体の翼竜の各構成骨に記号を付しており、その記号の入った線画も引用されている。以下、記述の順に図にある記号と骨の名前(または部位)の対応を記しておく。

464 Cuvier, 1812. Colliniによる標本スケッチ。左右反転。

AB: 吻部を伴う頭骨。C: 眼窩。HK: 尾。O: 最長の骨(脛骨)。P: 後肢の3番目の骨(中足骨)。Q: 足の骨(足根骨・趾骨)。R: 足の骨(足根骨・趾骨)。T: 大腿骨。N: 後肢の構成骨(不明)。U: 後肢の構成骨(不明)。1〜7: 翼の構成骨。X: 鎖骨(不明)。Y: 不明。リスト中のカッコ内の名称は私が加えた。なお、左下の足の線画は、そこだけを拡大して付けたもの。スケッチにはスケールが記してないが、文中に幾つかの計測値が記されている。例えば顎の開口部の長さは3 inchi+3 linesとされている。Lineというのは12分の1 inchだから、開口部の長さが8.25センチぐらいということになる。上の図の枠外には、これを基にしておおよそのスケールを書き込んである。思ったよりも小さい。

 Colliniの判定に対して、Cuvierは幾つかの改訂を行った。一つは、「足の第1節」というような言い方をやめて、大腿骨・脛骨というような名称(上のカッコ内の名称)に改めた。また足の骨(中足骨など)が他から来たものではなく同一個体で矛盾がないとした。確かにこちらの方が適切である。
 標本の来歴についての記事がウィキにある。その情報の根拠は示されていないが、Collini, 1784 にもとづいている可能性はある。「標本はゾルンホーフェン近くのパッペンハイムという街に住むフリードリッヒ・フェルディナント伯爵から送られたものであり、アイヒシュテット産と言われているが発見と贈与の正確な日時は不明である。」 Friedrich Ferdinandという人物は何人かいて年代の合致する人はわからなかった。標本はこの人物からKurfürstentum Pfalz (ファルツ選帝侯)のKarl Theodor (1724-1799)に贈られたもので、ゾルンホーフェン石灰岩のものだが、産地は明らかではない。CuvierはAichstedt(Eichstätt)産としている。

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