■ベートーヴェン・ピアノソナタ 31番、作曲家の意図が反映された楽譜の見分け方■
2010・8・18 中村洋子
★ベートーヴェンの、 「 後期ピアノソナタ 」 について、
≪ 耳の病気のせいで、音域のバランスが悪い ≫
というような趣旨の、誤った意見が、
いまだに、ときどき見受けられます。
しかし、それは、明らかに誤りです。
★ベートーヴェンに限らず、プロの作曲家であれば、
楽器を使わずに、頭の中で実際に音を鳴らし、
頭の中でそれを、聴きとることは、自明の理で、
日常的に、歩いたり、食事をすることと、
全く、同じ次元の話です。
★作曲家としての、私の経験からいいますと、逆に、
楽器を、使わずに作曲する場合、
バランスの取れた音の配分で、作曲することが、
かえって、容易なのです。
★幼少のころから、和声、対位法を身につけていますと、
調和した、整った響きの音楽こそ、最も、作りやすいのです。
★しかし、 「 美は乱調にあり 」 は、洋の東西を問わず真実です。
ベートーヴェン晩年の、ピアノソナタでの、
極端な高音や、低音域への飛躍、
標準的な和声の配置から、大きく外れた 「 四声体和声 」 などは、
決して、耳が聞こえなくなったためでは、ありません。
★ベートーヴェン・ピアノソナタ 31番 As-Dur Opus 110 の、
第 1楽章の 第 1、 2小節は、≪ 四声体和声 ≫ で、
書かれています。
左手が、バスとテノールを、受け持ち、
右手が、アルトとソプラノを、担当します。
★左手のバスとテノールの音程は、完全 5度、短 3度、
完全4度、長2度、と極めて、狭い音域にとどまっています。
★同様に、右手アルトとソプラノの音程は、長3度、完全4度、
減 5度、短 3度、と、これまた、狭い音域です。
★ところが、左手と右手との間、
すなわち、テノールとアルトの音程は、
完全 11度 ( 1オクターブ + 完全 4度 ) 、 1オクターブ、
長 10度 ( 1オクターブ + 長 3度 ) 、長 10度というように、
大変に、かけ離れています。
まるで、大きな空洞が、存在しているようです。
★ベートーヴェンは、耳の病気のせいで、
このような“バランスの悪い ”和声を、書いたのでしょうか?
★なぜ “バランスの悪い ”和声を、書いたか、それを解くカギは、
やはり、≪ バッハ ≫ にあります。
★バッハの作品に、親しんでいる人にとっては、
次のようなことは、当たり前のことでもあります。
★バッハの曲では、ある声部や音域に、大きな空洞が出現した後、
その空洞を、埋めるかのように、
重要なテーマ、モティーフ、旋律などが、
姿を、現します。
★丁度、お芝居で主役が登場する前、舞台を暗くして、
次に何が起こるのか、観客の注意を喚起するのと、
同じようなもの、かもしれません。
★次の瞬間、明るい光が差し込み、主役が登場します。
同様に、ピアノソナタ 31番 3小節目で、
その空洞に、光が射すように、
左手テノール声部に、 Es、 As、 C、 B、 C、 Des
という8分音符の、重要で美しい旋律が、
やさしく、姿を現します。
★ベートーヴェンが、なぜ、自筆譜の、
テノール声部の上のところに crescendo を書き込んだか、
その意味が、これで、分かると思います。
★しかし、あくまで、これは、 ≪ テノール声部 ≫ に、
書き込まれた crescendo です。
3小節目 Es、 As、 C、 B、 C、 Des の後半、
B、 C、 Des の和音と、4小節目前半の和声の配置は、
教科書通り調和のとれた、 「 開離配置 」 になります。
★その場合、4声体コラール と同じように、
ソプラノが美しい旋律を担当しますので、ベートーヴェンは、
3小節目 ≪ ソプラノ声部 ≫ の上にも、
自ら、crescendo を、書き込んでいます。
★ベートーヴェンはこのように、3小節目で、
並行して、 ≪ 2つの crescendo ≫ を、書き込んでいるのです。
ここに、 ≪ 和声と対位法の美の極致 ≫ が、読みとれるのです。
★3小節目の crescendo は、ベートーヴェンが書き込んだように、
テノールとソプラノの 2声部に、各々、存在しなければなりません。
★しかし、定評ある 「 原典版楽譜 」 のほとんどは、
crescendo が、大譜表のト音譜表と、低音部譜表の間に、
一か所、記入されているだけです。
★これは、この部分が、ベートーヴェンの意図、
つまり ≪ 独立した4声 ≫ で作曲された、
という認識に、欠けているからでしょう。
★この作品を弾くに当たり、ヘンレ版、ヴィーン原典版、
ペーター版・・・の、どれを選択すべきか、
迷われた場合、
この第 3小節目に、きちんと ≪ 2つのcrescendo ≫ が、
記載されている楽譜を、お探しください。
★また、前回のブログで指摘しましたように、
2楽章の冒頭 1、 2小節の「 スラーの位置 」 が、
ベートーヴェンの記載通りに、なっているか、
その点も、選択する際の、判断基準としてください。
★もし、現在お持ちの楽譜が、
ベートーヴェンの意図と、異なった記載の版であった場合、
せっかく、勉強されるのですから、
ためらわずに、どうか、正しい版を探して、お求めください。
★ 9月 9日の 「 カワイ・平均律アナリーゼ講座 」で、
詳しく、お話いたします。
また、音楽雑誌 「 ぶらあぼ 」 9月号 136ページにも、
この 「 アナリーゼ講座 」 の、ご案内が載っております。
( 百合の花 と 蝉 )
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲