ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ベラルーシ人による「ごんぎつね」の感想

2015-03-03 |   新美南吉
 昨年末に「ごんぎつね」ベラルーシ語訳がベラルーシの文芸雑誌「マラドスツィ」に掲載されましたが、その後、2人の方から感想をいただきました。
 日本語に訳してみましたので、ここでご紹介します。

 民話に出てくるきつねとごんを比較した感想はおもしろいと言えばそうなのですが、民話と児童文学の登場するきつねはだいぶ違って当然かと私は思いました。


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新美南吉作「ごんぎつね」についての感想

タチヤーナ・レトゥノワ (モロジェチノ市立中央図書館 司書) 

 日本はベラルーシからとても離れたところにあります。しかし新美南吉の童話のおかげでこの奇跡の国が身近になり、理解できるようになりつつあります。最も重要なのはベラルーシのために日本との関係を作ろうと努力している人がいることです。
 一昨年前すばらしい日本の作家である新美南吉の作品について知ることができ、図書館の来館者や知人に紹介してきました。ベラルーシに住んでいる人もモロジェチノに住んでいる人も大きな関心を持って、日本の作家の作品を読んでいます。
 「ごんぎつね」という作品は悲しくて、哲学的です。残念なことに人生は常に楽しくて楽観的なことばかり起こるのではありませんし、人間はみんなそのことが分かっていると思います。
 この話を読んでいるとき、最初のほうでは兵十の身に起こった不幸について気をもみました。兵十は働き者で優しい人物ですが、貧乏です。身の回りに起きた不快な出来事、喪失感を何とかしようと努力していました。ごんも孤独で、いたずらもしましたが、状況を理解し自分ができることはないかと考えました。栗やまつたけをあげたのは、兵十がひとりぼっちではないことを気づかせたかったからだと思います。
 狐ですら、兵十に対する自分の非を認め、毎日自分の誤りを正そうと努力したのです。確かにもっといい方法があると気がつくとは限りません。物語の最後ごんは兵十が自分が栗を持って来ていたことを知ってほしいと思いました。この話が悲劇として幕を閉じるのは残念です。
しかしこの話には深い意味があるのです。早とちりをして思い込むのはよくないし、どんなことでもよく考えないといけないし、それからどうするのか決めるほうがいいのです。
 他にもこの作品には宗教的な意味もこめられています。他人に迷惑をかけてはいけない、心の中に怒りを抱いてはいけない。人生はなるようになり、運命によってどうなるのか定められている。
 ベラルーシ語の翻訳は大変上手にできています。翻訳者がベラルーシ人読者のために訳してくれたこと、ベラルーシ語が母国語の人のためにしてくれたことは、非常に重要なことです。
日本のお話のことを非常によく理解できるようになりました。
 よい翻訳家の手によって訳された新美南吉の他の作品ももっとたくさん読みたいです。


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日本人作家新美南吉の作品「ごんぎつね」の感想

ビクトリヤ・エルモレンコ (文化学研究教員・バラノビッチ市立中央図書館勤務)

 日本の有名な作家で詩人でもある新美南吉の作品「ごんぎつね」の感想を書くことになったのは大きな喜びです。大学で学んでいたときに日本文化と文学について勉強しましたが、新美南吉について知ったのは今回が初めてです。スラブ文化圏に住む専門家として「ごんぎつね」をスラブの民話中に登場するきつねと比較してみたいと思います。
 しかしその前にまずこの作家の輝く才能について述べたいです。新美南吉は繊細な魂の持ち主であり、魂の世界を感じることができ、「ごんぎつね」という作品の中で感情のコントラストを深く描き出すことができる人物です。作者はまず作品の冒頭で、これは茂平おじいさんが話してくれた物語、つまりユング心理学で言うところの賢老人の話であると書いています。古くから伝え聞いた話であると前置きする手法は世界中の文学の中で見られます。作者はおじいさんの名前も具体的に挙げて、これは古い世代から語り伝えられてきた物語であることを示すとともに、日本の古い世代の古風な文化感を作品に付加しています。
 この作品の主人公はきつねのごんです。ごんはしだの茂みの中にある穴に一匹で暮らしていますが、その性格は村へ行っていもを掘り散らかすといったことをするいたずら者という設定です。
 一方でごんには人間的な性格も付加されています。特に抽象的なことを考えることもでき、頭で考えて決定したことを実行することもできます。
 ごんは兵十が採った魚を逃がしますが、最後のうなぎを巣穴に向かって持って行こうとするときに兵十はごんに気づきます。
 数日後きつねは兵十の身の上に起きたことに同情します。この感情は繊細な心理状態によるものです。兵十の母の死を知って、ごんは自分が悪かったと思い、栗やまつたけといったもので償いをしようとします。
 ごんというきつねとスラブ民話に登場するきつねにはここに違いがあります。日本のきつねがいたずらをするとしても、自分の罪を感じたり、償いの行為をしようと努力するのに対し、ロシアのきつねは自分の関心のあることだけに対して行動し、エゴイズム丸出しで自分のやり方を決めます。
「きつねとおおかみ」というロシアの民話がありますが、おもしろいのはこの話でも魚釣りの場面が出てくることです。ロシアでも日本でも魚というのは利益といったものを表す重要なシンボルで、共通する合言葉なのかもしれません。
 ごんが贈り物をあげるとは兵十にとっては思いもよらないものでした。ある日友人の加助に会ってそのことを話しますが、加助はそれは神様からの贈り物で、だから毎日神様にお礼を言うといいと言われます。この話を全部聞いていたごんは本当に贈り物をしている自分ではなく、神様に兵十が感謝するのは正しくないと思います。しかし再び栗を持ってごんは兵十の家に向かいました。ここでこの物語の中で最も興味深い場面が始まります。兵十はごんがいつか魚を盗んだきつねであることに気がつきます。そこで銃を取って家から出てきたごんを撃ち、その後でごんが栗を持ってきていたことに気がつきます。そこで兵十は誰が今まで贈り物をしてくれたのか分かりました。
 この物語はごんの死によって終わります。それが私にとってはとても残念です。ほんの一分ほど理解が遅れたことによって、一つの命が終わってしまったからです。
 この終末の場面にこそ日本人の民族性がよく現れていると思います。この話を読み、私は悲しみの感情に大きく揺さぶられました。私が慣れ親しんでいるスラブ民話に登場するきつねはいつも「水中からでも乾いた姿で現れる」と言われるほどずる賢くて、「おだんごぱん」に出てくるきつねはおだんごぱんを食べてしまいますし、「きつねとおおかみ」も話の筋は全てきつねの思う壺になっていきます。
 「ごんぎつね」では全て違っています。きつねがしたいたずらや思い上がりが死によって罰せられます。この作品はとても気に入りました。これからも日本の文化や文学を多く読みたいと思ったからです。
 私の心の中で感情を大きく波立たせた作者である新美南吉に感謝するとともに、翻訳作業を行った日本文化情報センターにも感謝します。