ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第98回」

2009-12-02 |   ビタペクト配布活動
 12月1日にビタペクト2と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第98回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト2を2個、そして「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2は合計1655個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1370部となりました。
  
 今回で通算108回目のビタペクト2の配布となりました。
 のべ人数になりますが、現時点で1655人分のビタペクト2、そして1370家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(ビタペクト2を開発、製造、販売しているベルラド研究所のサイトはこちらです。)

http://www.belrad.nsys.by


 今回は2家族がSOS子ども村に来て保養滞在しており、そのうちの1家族にしかビタペクト2を渡さなかったのですが、それぞれのお母さんにお話を伺いました。

(家族A)
 
 この家族は2005年と2007年にSOS子ども村に滞在しています。
 2005年のときの滞在の様子はこちら
「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第38回」

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/2005/no38.html


 2007年のときの滞在の様子はこちら
「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第55回」をご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/2007/no55.html


2005年、2007年、2009年のそれぞれの体内放射能測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト2を渡しました。

母親(事故発生時19歳) 10ベクレル → 11ベクレル → 7ベクレル 
17歳(女子)19ベクレル →  0ベクレル → 14ベクレル
15歳(男子)17ベクレル → 13ベクレル → 10ベクレル
15歳(男子)         19ベクレル → 11ベクレル 
13歳(男子)         17ベクレル → 18ベクレル
12歳(女子)18ベクレル → 19ベクレル → 12ベクレル
10歳(女子)         14ベクレル → 15ベクレル
10歳(女子)19ベクレル →  0ベクレル → 21ベクレル ○
 9歳(女子)                  19ベクレル
 5歳(男子)                  16ベクレル
 5歳(女子)                  28ベクレル ○
 4歳(女子)                  18ベクレル

 このうち9歳の女の子は19ベクレルで、ビタペクト2をあげたかったのですが、現在SOS子ども村では子どもは20ベクレル以上の子どもにビタペクト2を渡すことになっています。
 でも今回渡した二人の子どもも基準の20ベクレルとあまり差がない子どもも、年齢が低い、つまり体重が少ないので、半分ずつぐらい分け合って飲んでも、効果があるだろう、ということでした。そのため15ベクレル以上20ベクレル以下の子どもにもお母さんが飲ませたかったら、どうぞ、ということになりました。

 子どもたちの健康状態ですが、1人の子どもが弱視です。
 1年前に養女として迎えた4歳の女の子は生まれつき腎臓が一つしかなく、自覚のないまま排尿してしまうため、ずっとおむつをしています。養女にするときに、こんな問題を抱えている子どもだとは知らされていなかったそうです。施設の職員は知っていたはずなのですが、そのことを知ると里親が引き取りたがらない、と思ってわざと言わなかったそうです。
 このような家庭タイプ孤児院ですが、就学前の子どもには月に約80ドル、就学後の子どもには約100ドルの育児手当が支給されています。しかし紙おむつがいるような子どもに対してはその分の手当は支給されていません。引き取った親の負担になってしまいます。
 それでもまだ、育児手当がもらえるだけまだいいほうかと思います。そしてベラルーシの政府は家庭タイプ孤児院を奨励する一方、どんどん国営の孤児院閉鎖しています。経費削減、ということです。
 ボリソフには障害児でしかも孤児、という子どもばかりを集めた施設があったそうです。どうしても障害のある孤児は養親に引き取られることが少なく、残ってしまうそうです。(悲しい話ですが・・・。)
 ところがボリソフの施設も、給食に食中毒を起こす細菌が見つかったとかいう理由で閉鎖されてしまいました。子どもたちは他の地域の同じような施設にばらばらに収容されたそうです。
 しかし、子どもが多すぎて障害に対して職員が適正な対応を個々にできず、また急激な環境の変化にともなう精神的なストレスからか、多くの子どもがその後死亡してしまったそうです。

 家庭タイプ孤児院に引き取られた子どもはまだ幸せです。けれどこのお母さんの話によると子どもたちが孤児になったいきさつはそれぞれなのですが、悲惨なケースが多いそうです。
 この子どもたちの中に兄弟がいるのですが、7年前に母親が父親を刺殺してしまったため、孤児になりました。しかも家の中で子どもたちは現場を目撃していたそうです。さらに母親はそのとき妊娠中。刑が確定するとすぐに中絶手術を受けさせられたそうです。
 一番上の子どもは親戚に預けられましたが、下の子どもたちは施設に入れられました。その後今の養親に引き取られたのです。
 3年間の服役中、そして現在も実の母親は手紙1本子どもに寄こさず、子どもたちの居場所すら尋ねようともしなかったそうです。
 養親は子どもたちに
「本当のお母さんに会いたい? 会いたいなら探してあげる。」
と一度きいたのですが、子どもたちは
「会いたくない。」
と答え、実の親の顔ももう覚えていない、と言ったそうです。事件が起こったときはこの兄弟は小学校低学年ぐらいなのですが、親の顔を忘れてしまうものなのでしょうか? 確かに何年も会っていないし、写真などもないのでしょう。あるいは事件の衝撃から記憶喪失みたいな状態になってしまっているのか? と私などは考えてしまいました。

 5歳の女の子は母親がアル中。ここまではよくある話なのですが、この後が問題です。あるとき母親はウオッカを飲みすぎて泥酔状態になっていました。それでもまだ飲みたいと思って、家の中を酒瓶を求めて探し始めました。やっと見つけて、全部飲んでしまったのですが、それはウオッカではなくアセトンだったのです。(アセトンというのはペンキの薄め液などに使われています。)
 その結果アセトン中毒を起こして倒れ、病院に担ぎ込まれましたが、脳に後遺症が残ってしまい、目や耳は聞こえるものの、自分が誰なのかも分からなくなってしまい、子どもの顔を見てもそれが分からない状態になってしまいました。
 もちろん育児などは全くできないので、子どもは施設に入れられました。
 そしてその子は今の養親に引き取られたわけですが、他の子どもと違って、年少であること、実の母の回復の見込みがないこと、などの理由から完全にこの養親の戸籍に入れたそうです。
 そしてそのときに苗字はもちろん名前も改名したそうです。(ベラルーシは日本と比べると改名は比較的簡単にできます。もっとも実行する人は少ないです。)
 確かに実の母のこと、本名のことも知らないで生きるほうがこの子どもにとって、幸せなのかもしれません。でも養親のお母さんは
「でもいずれ時期が来たら、真実を話さないといけないでしょう。小さいときに引き取った子どもたちも、思春期前には本当の親ではないことを話すことにしています。」
と言うことでした。
 
(家族B)

 ミンスク州マリノ・ゴルカ市の近くにあるドゥルジュヌイ村から来た家族。この家族には年齢制限からビタペクト2を渡していません。
 それぞれの体内放射能測定結果はこのとおりです。

母親(事故発生時6歳) 14ベクレル
長男(5歳)14ベクレル
長女(1歳)40ベクレル

 本当はこの長女にビタペクト2をあげたかったのですが、1歳なので渡せませんでした。
 子どもたちは食物アレルギーがあったそうですが、最近はだいぶ治ってきたそうです。
 お母さんが長男出産後、足と胸の部分のリンパ腺が腫れるという病気にかかってしまいました。この病気になっている人はベラルーシには8人しかいないそうです。
 ホルモン剤を飲み続けていますが、あと2年は飲まないといけないそうです。
 その副作用のせいで肝臓も悪くなってきており、お母さんは大変な様子でした。しかも離婚など家庭的にも恵まれていない様子で、普通は多子家庭や障害児を持つ家庭がSOS子ども村に保養滞在することになっているのですが、特別に滞在できたそうです。
「SOS子ども村ではゆっくりできる。自分の病気のことも少し忘れることができた。」
とお母さんは喜んでいました。

 画像は記念撮影の様子です。ただ(家族B)のお母さんは1歳の娘さんを昼寝させるため、寝室のほうに行ってしまったので、ここには写っていません。

 今回もいつものように子ども達に折り紙、メモ帳やかわいいパンダの付箋や鉛筆などの文房具をプレゼントしました。
 子どもたちは「もうすぐお正月だけど、日本はどのようにお祝いしているの?」ときいていました。
 1か月後には優しいお父さん、お母さんからすてきなプレゼントをもらってください。  
 
 最後になりましたが、ビタペクト2の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。