自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

胸に染みる空の輝き

2012年06月09日 | その他 others
この国のリーダーとされる男が「国民の安全のために原発を再稼働する」と言い放った。この文章は本人が考えたものではないだろう。官僚が悪知恵をしぼって作りあげた作文に違いない。そのことは「安全」のすりかえと、耳当たりのよいことばによるカモフラージュからあきらかだ。「安全」とはエネルギー浪費生活を安全に維持するということにすりかえられている。いま国民投票をしたら、こんな浪費的な生活を続けながら、メルトダウンの危険と同居したいなどという人が多数はとはとても思えない。そのことの間違いを2万人の尊い犠牲者と、15万人の難民が証明したのではなかったのか。官僚はずるいから、そのままでは馬脚が露骨に見えるからと、「地方への感謝」表明を忘れない。こう言うことによって「都会人は勝手にエネルギーを浪費して、危険を地方におしつけていいとは思っていない」と善玉を装う。「あれ?なんだかいいことを言っているみたいだ」と思わせて丸め込もうとしている。では感謝しているということは実際どうすることなのか。難民を一年以上放置しておいて、地方に感謝するとはどういうことか。首相がそういう文章を誠実なふりをして読めば感謝したということになるのか。
 このことの本質は「日本はこれからもエネルギー浪費社会を維持する」と表明したことにほかならない。暗黒の国であるかの印象をもっていたソ連でさえ、チェルノブイリ事故を冷静に分析し、地味ながら再発防止の努力を続けている。世界は被災者の誠実さや強さに賞賛を送って来た。そして、「日本はとりかえしのできない失敗をしたが、これで変わってくれるだろう」と注視してきた。「原爆を乗り越えた国だもの」と。だが、その原爆を遥かに上回る放射能を出した事故の分析をしていないどころか、現在進行形の4号機のリスクを棚に上げたまま、「原発なしにこの国の社会はありえない」と表明した。首相はみるからに傀儡であるから、無視してもよかろうが、こうした文章を作文した官僚の意図はどこにあるのか。大東亜戦争の大本営でもこれほどひどくはなかったのではないか。そこにはまちがいであったとしても明確な「正義」があった。だがこの国のリーダーたちには、半年前に連呼していた、原発の危険性を容易に翻意する無節操さしかない。
 去年の3月、自分の人生で最大の事故が起きたことを知った。私の人生どころではない、人類史においてそうであろう。そのことに対するこの国の判断がこれであるのか。私はかつてこの国についてこれほど重苦しい思いをしたことはない。自分の人生はもう残り少ないのだからどうでもよい。思うのは、子供たちの将来と、もの言わぬ生き物たちの将来である。なにが「豊かな生活の維持」であるか。己の目の前の享楽的な生活だけしか考えないのだろうか。国土に対して、自然に対して、思いやるものはこれっぽっちもないのだろうか。

かつて「哀しくてやりきれない」という歌があり、十代の私はくりかえし口ずさんだものだ。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか



白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか



深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も 続くのか


あのころ、私はなんだか漠然とした不安を抱えながら、この歌が自分の心を表現してくれているように感じていた。だが、そのときは社会に対する不満はなく、その社会に自分がどうかかわるかに不安をもっていたのだった。しかし、今この歌詞を読み返すと、自分のいる社会が絶望的にまちがった選択をしたことにやりきれなさを感じることが違う。もうひとつの違いは、あの頃のように涙は流れないことだ。哀しみは何倍も深い。
コメント
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