5月12,13日の早川です。
山の中にある、ある集落に行きました。もっともすでに廃村になっていて、今は誰も住んでいません。スギの話の中を行くと古い石垣がありました。機械もない時代にひとつひとつ重ねて作ったに違いありません。この地震国でいまでも崩れないでいるというのはたいへんなことだと思います。
いま大学で古くなった建物をバリバリと壊していますが、ああいうのを見ると建物とはいったい何なのかと思います。要するに「いるという機能空間」であり、用がなくなれば壊すもののごときです。建物というのは本当にそういうものなのでしょうか。ふつうに考えれば、そこに人の暮らし、大学だから暮らしはないにしても、研究者の日常があり、学生の勉学や時間や想い出があった、そういうものを含んだ空間のはずです。
都会に出て、歳をとってここを再訪してこの石垣をみた人は、この道や石垣に残された想い出がよみがえるはずです。音や匂いも甦るのではないでしょうか。
江戸時代、あるいはそれ以前から累々と築かれてきたこうした構造物を捨てなければいけない社会になってしまった。今の時代は何かおかしなところに入り込んでいるのではないかという気持ちが、だんだん確信になりつつあります。
山の中にある、ある集落に行きました。もっともすでに廃村になっていて、今は誰も住んでいません。スギの話の中を行くと古い石垣がありました。機械もない時代にひとつひとつ重ねて作ったに違いありません。この地震国でいまでも崩れないでいるというのはたいへんなことだと思います。
いま大学で古くなった建物をバリバリと壊していますが、ああいうのを見ると建物とはいったい何なのかと思います。要するに「いるという機能空間」であり、用がなくなれば壊すもののごときです。建物というのは本当にそういうものなのでしょうか。ふつうに考えれば、そこに人の暮らし、大学だから暮らしはないにしても、研究者の日常があり、学生の勉学や時間や想い出があった、そういうものを含んだ空間のはずです。
都会に出て、歳をとってここを再訪してこの石垣をみた人は、この道や石垣に残された想い出がよみがえるはずです。音や匂いも甦るのではないでしょうか。
江戸時代、あるいはそれ以前から累々と築かれてきたこうした構造物を捨てなければいけない社会になってしまった。今の時代は何かおかしなところに入り込んでいるのではないかという気持ちが、だんだん確信になりつつあります。