memories on the sea 海の記録

海、船、港、魚、人々、食・・・などなんでもありを前提に、想い出すこと思いつくこと自由に載せます。

狭い海     ガザ

2011-08-07 10:16:15 | 海事
「父は船大工で自分は父から学んだ、船つくりが自分の人生だ。でも今や仕事もない」Abu Fayez Bakr(64歳)はガザ地区の船大工2人のうちの一人である。しかしこの仕事も終わりだ(8月1日IPSNEWS)

「息子はボート修理を学んだが、本格的な船つくりではない。仕事があればよいが、彼らも年をとってしまった」

ガザの簡素な港で、彼の最後の作品といえる頑丈なボートのそばに座りBakr氏は語った。「デンマークの支援金で海洋観測機器などを備えた調査船を建造した。この船を造ったのは9年前だが、ほとんど使われることはなかった。わずか1,2浬ではなくこの船をまともに使うためには沖に乗り出す必要がある。オスロ協定でパレスチナ人は20浬まで出ることが決められているにもかかわらず、イスラエルの致死的な強制で3浬に押し込められている。「この船も先のイスラエルのガザ攻撃で破損、今これを修理している」と語る。

Bakr氏は仕事の状況について、また漁民の状況に嘆息する。「イスラエルの包囲が個々のすべてを困難にした。仕事に必要な材料も禁止された」 「まれわれはまともな釘さえ無い。銅や海水でさびない材料が必要だ。やむなく古釘を使用するが1,2年で取り換える必要がある。FRPの質も悪く漁師は水漏れを修理しなければならない」木材と機械の禁輸がBakr氏を悩ませている。 「自分はかつてブラジルやその他の地区からの良質樫の木をイスラエル経由で手に入れていた。いまはエジプトからトンネル経由で運んだ高いユーカリ材を使うしかない。しかいこれは船つくりには不向きで5年でだめになる」

ガザ地区の外で船大工をしているAbu Fayezもガザの機器と材料不足を嘆いている。「ガザではすべてを簡素化する。ボートの修理も浜辺で行う。しかし本当は屋根のある工場で行うべきことだ」彼は130トンの大きさの ブロックで支えられた調査船を指さしながらいう。「誰も工場を持つ金がない。漁師は辛くも生計を支えているだけだ」という。港の向こう側に中規模の船が鎮座している。「船主のためにあの船の拡張工事をしていたが、資材が高騰、当たり前の価格の10倍にもなった」新船建造の注文は来ない。Bakr氏はペンキ塗やちょっとした修理で生き延びている。イスラエルの攻撃を受けたボートがBakr氏の元へ船を持ってくる。
「ボートはイスラエルの銃弾や機銃で損傷し穴が開いている。中には砲撃や放水銃による損傷もある。それらによって機器は破壊され木部が弱くなる」修理仕事だけでBakr氏は家族を養っている。

「もし自分がガザの外にいたのなら仕事でいい金を稼ぐことができる。しかしここでは誰も新船を作る金を持たず、ほとんどの漁師が借金に頼っている」1990年代の後半にはパレスチナ経済に投資があり経済の見込みがあった。ガザのパレスチナ人の一人が2層甲板のクルーズ船をBakrに注文したことがあった。「2000年には完工し、何年かは港外にも出かけた。しかしイスラエルの海軍の銃撃を恐れ人々は船に乗らなくなった」 「そこで船主は船を港内に入れ、浮かぶレストランとして利用した。それでも人々はイスラエル海軍による浜辺に向けての銃撃を恐れた。そこで船主は誰も来ない船へ金をつぎ込むことをあきらめた」とBakr氏はいう。

Abu Said Najjar (35歳)はRafahの人でガザの最後の船大工のうちの一人である。「自分は叔父から学び、ガザとエジプトで働いた」と彼はいう。Bakr氏と同様漁業の減衰が彼の仕事に影響を与えている。「この5年間まともな仕事をしていない。漁師が働けず金を貯めるだ家の漁獲ができないためだ」Najjar氏の最後の仕事であるボートの船殻がある。新しいペイントで光っていて、強い船に見える。「この船の内部を仕上げる必要があるのだが、船主には材料を買う金がない」という。「仮に金を借りたにしてもそれを返すめどがない。3浬に制約された中では」 BakrのようにNajjarの息子も仕事を学んだが仕事がなくあきらめた。

「以前にはもっとたくさんの船大工がいたが伝統は死に絶えた。若者はすぐ金になる仕事を求め、船つくりはもはや仕事ではない」とNajjar。「我々は船 造りの伝統を残す手段が欲しい。船つくりや修理のためのまともな場所が欲しい。我々の漁師がまっとうに働ける海が欲しい」