拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

合わせるためならなんだってする

2015-10-23 10:29:23 | 音楽
本番直前のシュッツを歌う会、とってもいい感じ(練習の後、例によって大酒を飲んで、で、ぐっすり寝過ごした=気分がよかった証し)。こういう少ない人数のグループだとその日の出席メンバーによって音色が変わる。バスが充実してる昨今はとても落ち着いた響き。以前の女声が多いときは、Rシュトラウスのオペラのようなロココな響きだった。そうした音色の変化を楽しむのも乙なもの。ところで、本番の開始の音をどうやってとるかが話題になった。「軽くハミングしたら?」「それはみっともない」「合わなかったら逆にみっともない」等いろんな意見が出る。最終的にはピアノをポンと叩いて出すことになりそうだが。「みっともない」で思い出した。高校生のとき、吹奏楽部の定期演奏会で「運命」の第1、第3、第4楽章を演奏することになり、私が指揮をすることになった(オケのスコアからの編曲も私がした)。第1楽章の冒頭は合わせるのは難しい。当時、テレビで「オーケストラがやってきた」という番組があって、そこに「1分間指揮者コーナー」ってのがあって、素人がプロのオケを振る、という企画。で、どっかの中学生が運命に挑戦して、振れども振れどもオケから音が出てこない(あれは多分に「いじわる」を感じた。だって、ベームのわけのわからない棒でもコンマスのヘッツェルが合図してちゃんと出るんだから)。じゃ、自分はどうやって振ろうかと思ってるところに某先輩が悪魔のささやき。「合わせるために空振りするなんて『みっともない』ことはするなよ」。そうか、空振りは「みっともない」んだ。いや、その先輩のせいだけではない。私自身も、当時哲学青年で、「形而上」なるものを信じていた。だから、みんなの「気」が一つになればいきなり振り下ろしても合うはずだと思った。で、本番。ジャジャジャジャジャーーン!「ジャ」が一個多いでしょ?運命が扉を一個余分に叩いたんだす。見事に(?)一つにならなかった「気」。それでも反省はなし。気持ちがこもればジャが一個多いくらいなんだ、天下のフルトヴェングラーだって、さすがに一個多いということはないが、半個多かったりする、って感じで(それにしても、プロの楽団でも合わないんだから、ふるとう゛ぇんぐらーの指揮はまさに「ふるとめんくらう」)。さて、その後。青年特有の熱情が抜けて、すっかり現実主義者に変貌した今の私は合わせるためならなんだってする(必要ならハミングだっていいと思う)。運命だって合わせるためだったら4小節でも8小節でも空振りする(でも、8小節も空振りしたら途中で数が分からなくなりそう)。