麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第544回)

2016-12-11 22:07:20 | Weblog
12月11日

スマートボールをやりながら彼は思い出す。――「お・か・ざ・き・さん」川島民江が二階のインターホンに思い切り口を近づけた結果のひび割れ声で彼を呼ぶ。そうだ。彼の名前は岡崎、岡崎公、いや、岡崎公次というのだ。いま、作者にもわかった。ようやく。「川島荘」の玄関はコの字の右下の角。下宿人の部屋に比べると、数段こぎれいな感じで、下駄箱の上には生け花と、大きな木の板が二枚立てかけてある。「なんとかかんとか茶道教授」「なんたらかたらいけばな教室」(両方とも達筆の筆書きなので彼には読めなかった)。そうだ。川島民江はお茶の先生であり、おはなの先生でもあり、先生というからには生徒もいて、その生徒たち(ほとんどが近所の主婦だろう)が毎日のように出入りしていた。彼女たちに、若いオスどもの生臭さを感じさせないよう、川島民江は玄関を聖域のように毎日掃き・磨き清めていたのだ。生徒たちは玄関をあがるとすぐ右にある階段で下宿とは別世界の上の部屋へ直行する。逃げるように。彼の部屋はその階段の真下にあった。正確には、階段の裏が彼の部屋の三角形の押し入れになっていた。もと入院患者の病室。つまり、ここで何人もが死んでいった細長い四畳床板張りの部屋(四畳半ではなく四畳)。そのほぼ同じつくりの部屋が、コの字の下の横棒を廊下とすると、両側に三部屋ずつあった。板張りの洋室なので彼の部屋以外に押し入れはない。みんなそなえつけのベッドで寝ていた。まるで独房だ。彼はベッドで寝たことがないので、はじめにそれをとっぱらってもらい、カーペットの上に布団を敷いて寝ていた。――冬はおそろしく寒かった。少なくともその季節には、彼が同級生の部屋を泊まり歩いたのも無理はない。家賃は二万円。それは当時でも最低の部屋代だった。同級生たちはおおかた三万円台のところにいて、少しは人間らしい生活を送っていたから。



突然、河出から柳瀬訳「ユリシーズ1-12」が出ました。高いし、現在は万葉集にかかりきりになっているので、いまの言葉でいえば一度はスルーしたのですが、やはり、ジョイスの新刊が出ているのに買わないなんておかしいと感じて今日買ってきました。そうして柳瀬さんが今年亡くなったことを知りました。自分の好きなことができて、フィネガンを完訳して、思い残すことはなかったでしょう。いまから25年前、フィネガンの最初の本が出たときは本当に興奮しました(柳瀬さんのインタビューが載っているアエラのページはいまもフィネガンにはさんでもっています)。そのことはここでも書きました。私は30歳を少し超えたところで、まだ燃える文学青年だったと、いまになれば思います。同じ年にプルーストがちくま文庫になり、すごい時代が始まったな、と感じていました。――結局満足できることはなにもできず、どうしようもない老人になり果てた今、つくづく才能のない人間の悲しみを感じます。――万葉集を読み終えたら、ユリシーズにかかり、若い自分の肖像のかけらでも思い出したいと思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 生活と意見 (第543回) | トップ | 生活と意見 (第545回) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事