10月22日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
「アブサロム、アブサロム!」新訳、出ました。
少し読んだけど、入りにくい。フォークナーは入りにくい、と改めて感じています。
「響きと怒り」は、自分なりに、意味をくみ取れるところはくみ取った、と思います。この本も、そういう感じで、全体を理解することはおそらく無理でしょうが、いつか読むと思います。
☆
フォークナーを読んだので浮かんできたこと……
私はもともと、「一族」とか「ルーツ」とか「血」というようなことがすべて嫌いで、何の興味もありません。「おまえは自分ひとりでこの世に生まれたと思っているのか」。そんなふうに叱責する人はみなある程度「いい家」の人ばかりで、語るべき先祖の過去もたくさんある人たちです。うちにはそんなものは何もない。父が田舎の暴走族の頭だったというどうでもいい武勇伝があるだけで、系図もなにもありません。
自分のために自分で作り出す「おとぎ話」以外、私に生まれた理由は何もなく、私がいてもいなくても、世の中には何の影響もないでしょう。「世の中に影響がある」という言葉自体なんのことを言っているのかもわかりませんが。遺伝子も残らないし、墓にも入らない。自分も墓参りなどいやだったし、誰にもそんなことをしてもらいたくないからです。もちろん、死後の世界も来世も信じません。
☆
フォークナーを手本にしたと思われる日本の作家に中上健次がいます。若いころから読もうと努力して結局どうしても読めない大作家です。
黄金比の朝、だったか。浪人生が主人公の話がありました(最初に読むのに、身近な設定ならわかりやすいと考え、それを選んだのです)。その男は、兄たちの影響か何か知らないが、世の中についていろいろ考えていて、革命だとか学生運動だとかのことを考えている。立派な考えを抱き、既成社会に反抗している。でも、そんな男が、いったいなぜ予備校に通っているのか。読み始めて、すぐにつまずきました。既成社会に反感を抱き、見下している。つまり、高い所に立っていると自覚する男が、既成社会の中の、バカの最たる存在である大学にわざわざ行こうとしている。なぜか。まったくわかりません。このような設定で、唯一主題があるとすれば、それは、大変立派な、独立心旺盛な、思想といってもいいものを持ちながら、自分が予備校生でいることしかできない、その自分の愚かさを追及することでしょう。ところが、主人公はまるで老人のように、自分のことは棚に上げて怒りを外にばかりぶつける。この主人公はなにがしたいのか。すべてを見下すその鋭い言葉で、なぜまっさきに自分を突き刺さないのか。わからない。こんな若者はいないし、ロボットだと感じました。他の作品でも、登場人物に、いつも少しの共感も感じることができませんでした。この作者には書きたいことはなにもないのではないか。自分の脳ミソのよさを誇示するために政治論文の代わりに小説を書いているのではないか。書くことで要求しているのは、「俺の優秀さを思い知れ」ということだけではないか。
私は、そういうふうに感じる人にいつも「東大系作家」という呼び名をつけてきました。本当に東大に行ったかどうかは関係ありません。中上健次はエリート臭い。肉体労働者の書き方にしてもそれを神のように書こうとすればするほど彼らを侮辱しているように感じます。
その感じがあまりに強く、私はその作品をいまだに読めません。見かけは似ていても、それは、フォークナーとはあきらかに別の世界だと思います。フォークナーは、心底くだらない自分の姿を飾り気なく登場人物に反映させています。しかし中上作品には粉飾された自分しか出てこず、結局作者は一度も本当の告白をしていない、と感じます。どんな醜いことを書いても、「見せてもいい醜い自分の一面」(それもまた優秀さを際立たせる宣伝)でしかない。それは私の考えでは文学ではありません。いくら天才的な文章をつづれたとしても、です(蟻が富士山を批判している、とわかっていますが、正直な気持ちです)。
☆
志賀直哉全集九巻(随筆集一)読了。
☆
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
「アブサロム、アブサロム!」新訳、出ました。
少し読んだけど、入りにくい。フォークナーは入りにくい、と改めて感じています。
「響きと怒り」は、自分なりに、意味をくみ取れるところはくみ取った、と思います。この本も、そういう感じで、全体を理解することはおそらく無理でしょうが、いつか読むと思います。
☆
フォークナーを読んだので浮かんできたこと……
私はもともと、「一族」とか「ルーツ」とか「血」というようなことがすべて嫌いで、何の興味もありません。「おまえは自分ひとりでこの世に生まれたと思っているのか」。そんなふうに叱責する人はみなある程度「いい家」の人ばかりで、語るべき先祖の過去もたくさんある人たちです。うちにはそんなものは何もない。父が田舎の暴走族の頭だったというどうでもいい武勇伝があるだけで、系図もなにもありません。
自分のために自分で作り出す「おとぎ話」以外、私に生まれた理由は何もなく、私がいてもいなくても、世の中には何の影響もないでしょう。「世の中に影響がある」という言葉自体なんのことを言っているのかもわかりませんが。遺伝子も残らないし、墓にも入らない。自分も墓参りなどいやだったし、誰にもそんなことをしてもらいたくないからです。もちろん、死後の世界も来世も信じません。
☆
フォークナーを手本にしたと思われる日本の作家に中上健次がいます。若いころから読もうと努力して結局どうしても読めない大作家です。
黄金比の朝、だったか。浪人生が主人公の話がありました(最初に読むのに、身近な設定ならわかりやすいと考え、それを選んだのです)。その男は、兄たちの影響か何か知らないが、世の中についていろいろ考えていて、革命だとか学生運動だとかのことを考えている。立派な考えを抱き、既成社会に反抗している。でも、そんな男が、いったいなぜ予備校に通っているのか。読み始めて、すぐにつまずきました。既成社会に反感を抱き、見下している。つまり、高い所に立っていると自覚する男が、既成社会の中の、バカの最たる存在である大学にわざわざ行こうとしている。なぜか。まったくわかりません。このような設定で、唯一主題があるとすれば、それは、大変立派な、独立心旺盛な、思想といってもいいものを持ちながら、自分が予備校生でいることしかできない、その自分の愚かさを追及することでしょう。ところが、主人公はまるで老人のように、自分のことは棚に上げて怒りを外にばかりぶつける。この主人公はなにがしたいのか。すべてを見下すその鋭い言葉で、なぜまっさきに自分を突き刺さないのか。わからない。こんな若者はいないし、ロボットだと感じました。他の作品でも、登場人物に、いつも少しの共感も感じることができませんでした。この作者には書きたいことはなにもないのではないか。自分の脳ミソのよさを誇示するために政治論文の代わりに小説を書いているのではないか。書くことで要求しているのは、「俺の優秀さを思い知れ」ということだけではないか。
私は、そういうふうに感じる人にいつも「東大系作家」という呼び名をつけてきました。本当に東大に行ったかどうかは関係ありません。中上健次はエリート臭い。肉体労働者の書き方にしてもそれを神のように書こうとすればするほど彼らを侮辱しているように感じます。
その感じがあまりに強く、私はその作品をいまだに読めません。見かけは似ていても、それは、フォークナーとはあきらかに別の世界だと思います。フォークナーは、心底くだらない自分の姿を飾り気なく登場人物に反映させています。しかし中上作品には粉飾された自分しか出てこず、結局作者は一度も本当の告白をしていない、と感じます。どんな醜いことを書いても、「見せてもいい醜い自分の一面」(それもまた優秀さを際立たせる宣伝)でしかない。それは私の考えでは文学ではありません。いくら天才的な文章をつづれたとしても、です(蟻が富士山を批判している、とわかっていますが、正直な気持ちです)。
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志賀直哉全集九巻(随筆集一)読了。
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では、また来週。
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