麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第537回)

2016-10-16 21:47:34 | Weblog
10月16日


 三省堂古書部で「折口信夫全集四、五、六巻」(中公文庫)を750円で買いました。「口譯萬葉集 上・下」と「萬葉集辞典(「辞」は旧漢字)」です。この場所でも万葉集に対していろいろなアプローチをしていることを書いてきましたが、結局、どれもいまひとつで、半分以上、読むことは読んだのですが、高市黒人の2~3の歌と山上憶良の貧窮問答歌以外は自分の心にぼんやりした印象しか残してきませんでした。
 国文学者・折口信夫の口語訳万葉集が河出書房新社の日本古典文庫に収められていることは以前から知っていました。しかし、このシリーズはなかなか古本屋に出回っておらず(あまり売れなかったのでしょうか。私は新刊本として学生時代に「西鶴名作集」だけ買いました)、あっても、全巻セットで2万円はするので、読みたかったのですが、あきらめていました。一方では、折口信夫全集が中公文庫で出ているのを知ってはいましたが、歌や小説の創作もする、高名な国文学者(同性愛者としても高名ですが)の論文集というイメージしかなく、手に取ったこともありませんでした。――日本古典文庫の口語訳万葉集。中公文庫の折口信夫全集。二つが頭の中で結びつくことはなかったわけです。まるでスワン家に行く道とゲルマントのほうへ続く道のように……などと大げさな。
 少し考えてみれば、「全集なんだからその人の仕事のすべてが入っている」、「だから万葉集も入っている」、とわかったはずですが、先週、具体的に現物が目の前にあらわれて、ようやくその当たり前のことに気づきました。そうしてすごくうれしくなりました。ざっと立ち読みして、すぐにレジに持っていきました。
 予想通り、とにかく、すばらしい訳文です。いまは、岩波文庫の五冊本が世間的には決定訳になっているといっていいでしょう。しかし、逐語訳で簡潔なのはいいのですが、訳文だけでは歌われている状況がわかりづらく、前後の説明的な記述を同時に読まなければいけません。そうしているうちに心は冷えていき、歌に対してすごく客観的な気持ちになってしまう。それは、ほかの口語訳つきの本にも共通する大きな欠点です。ところが折口訳は、訳文を読んだだけで状況が推測され、感情は一読ダイレクトに伝わってきます。たしかに原文と比べると、使われていない言葉も補ってあり、意訳になっていることはわかるのですが――これは外国文学の翻訳でも同じですが――学者が誠実と考えている逐語訳は必ずしも翻訳と呼べるものになっていないことも多い。私は、万葉集の研究者になりたいわけではありません。違う時代の、でも同じ人間の考えたこと、感じたことを知りたいだけです。しかし私は万葉集が編まれたころの生活習慣も、言葉も知りません。この場合、学者は自分の知識を使って、学術的にではなく、文学的に言葉を置き換えていってこそ現代語訳をした、といえるのではないでしょうか。まあ、それができるためには、たんなる学者ではなく、自身が創作家である必要があるでしょう。そう考えてみると、いまのところ、万葉集の現代語訳(全訳)は折口信夫訳しかないのではないか、と思います。
 造本についてもひとつ言いたい。岩波文庫にしても、「現代語訳付き」という立場から、見開きの右ページが大きい活字で原文、左ページが二段組みの解説と訳文になっていますが、再読以降、原文を鑑賞できるようになる人がいったいどれだけいるのでしょうか。旺文社文庫と講談社文庫は昔ながらの脚注になっていて、その中に訳文があります。字が小さくてとても読みにくいです。これも、再読以降、上に大きく印刷されている原文(まあ万葉集の場合、本当の原文は漢字のみなのでしょうが)を必要とすることになる人がどれだけいるのでしょうか。これに気づいた角川文庫は最近、古典のリニューアルの際、散文なら現代語訳を前にして原文をあとに置くという昔と反対の編集をしています。万葉集も伊藤博訳をかなり大きい活字で読めるようにしています。しかし、まだ原文尊重です。中公文庫の折口訳は、ページをシンプルに上下に分けて、上が原文で下が訳文。でも、四対六くらいで訳文のほうが広いスペースになっていて、活字も大きくなっています。多くの、古典現代語訳付き本がやっていることは、たとえばゲーテのファウストを、ドイツ語原文を大きく、訳文を小さく印刷しているようなものです。味読できるのは、自分の慣れ親しんだ言葉であって、学者を目指しているわけではない以上、現代語訳こそが、私にとってその作品そのもののわけです。
 結局、旺文社文庫、岩波文庫、国民の文学の土屋訳万葉集を全部参考としながら再び折口訳で「こもよ」から読み始めました。いま三巻まで読み返しました。これまでと違うのは、これ以降再読するときは、訳文だけを読めばいい、そういう普通の読書が、ようやくこの本で可能になったということです(全二冊なのもすばらしい)。つまり、今度こそ、私は万葉集を愛読書といえるものにすることができそうなのです。とてもうれしいです。
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