麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第343回)

2012-09-02 03:10:35 | Weblog
9月2日


仕事場への行き帰りで、新潮文庫の新刊「ハイデガー拾い読み」(木田元)を読んでいます。とてもおもしろいです。以前も書きましたが、私は、「有と時(存在と時間)」しか読み切っていません。その後「ニーチェ」を読み始めて、危険を感じ、何十ページかでやめました。そのことも以前書いたのですが、ハイデッガーがニーチェを「“力への意志”を最終結論とする哲学者」としてとらえ、その自説の証拠を並べて見せる、その手際があまりに見事で、そこに優れたジャーナリスト(ライター)の腕を感じ、同時にそこに危険を感じたからです。ハイデッガーには、そういう才能があり、それはたぶん「優れた作家」と「優れたライター」に区別のないアメリカあたりでは大いに評価されることなのでしょうが、私自身はそのような考えには賛成できません。プルーストもドストエフスキーも優れたライターかといえば、違う。ヘミングウェイも一見そう見えるけど違う。ライターとはもっとあざとい人間であり、つねに大衆の賞賛を狙い、彼らを説得し、ある方向に誘導することを狙っています。ハイデッガーのような偉大な思想家にそんなことをいうのは、私の馬鹿さ加減を証明するだけかもしれませんが、でも、私はハイデッガーにはそういう性質があり、そのあざとさが、ナチスへの協力という行動をとらせた、と感じています。「ハイデガー拾い読み」には、そんな私の感じ方が私一人のものではなかったということを教えてくれる箇所があります。そこを読んで、「やっぱり専門の先生が読んでもそうなのか」と思いました。そうして、「有と時」はそんなハイデッガーの著作の中では例外的な作物だということも知りました。それもなんとなくはわかっていたことでした。なぜなら「有と時」の魅力は、まさに、「うまく説得できていないし、不器用に書かれている」ことにあるからです。でも、そこには人間の真情と未知の認識領域に入り込んでいく生の興奮が感じられます。それは感動的です。「ニーチェ」の調子はまったくそれとは違い、整然としてハンサムです。でも、つねに嘘をつかれているような気がしてしまう。

しかし木田先生の、創文社版全集翻訳文への批判は間違っている、と思います。先生はSeinを「存在」ではなく「有」という訳語で統一するこの翻訳本をほとんど全否定しています。そうして「有」という語は道元の「正法眼蔵」を思わせ、極めて仏教的だといいます。でも、私にはそれは、先生が(先生の世代が)子どものころ日本の仏教がまだ身近でよくそういう本を読んだり説教を聞いたりしたからで、どの世代にも共通の感じ方ではないと思います。私は道元なんて読んだこともないし、「有」に仏教的なものも感じません。私はむしろ、「存在と時間」と題された細谷訳や中公の原佑・渡邉二郎訳のほうがまったく理解できない翻訳書と感じられます(実際何度も読み始めて挫折しました)。「存在の存在論的側面と存在的側面が…」のように何度も「存在」が出てきて、うるさくてしかたないし、むしろ、そのほうがお経を聞いているようで眠くなります。岩波文庫の訳はそれ以前で問題外だと思います。私は「Sein und Zeit」については、創文社の「有と時」がベストだと思います。ゆっくり読み進めれば、必ず理解できる、普通の本であり、話の中に滑り出してしまえば、訳語がどうかなんて何も気にならない。そんなことより、その普通の言葉で世界の奥底まで連れて行かれるおもしろさに圧倒されます。

哲学も文学とまったく同じで、自分の心がその状態(雰囲気)を味わうこと、経験すること以外意味はありません。しかも、それが本当に意味のある書物なら、その経験はあらかじめ心がその端っこを知っていたこと。「あの角を入ったら」と思いながら日常にとらわれて入れずやりすごした路地の曲がり角を入り、どこまでも突き当たるまで進んでいく、そういう冒険のスリルを味わわせてくれるはずです。そうして、実は路地だと思っていた通りが真の大通りであり、大通りだと思っていたものが短く細い悪臭の漂う行き止まりにすぎないとはっきりわからせてくれる。

もちろん、それが感じられれば訳本なんてどれでもいい。私にとってはそれが「有と時」であり、読んだ経験からはそれ以外のものより入りやすかった、ということです。「存在と時間」の訳本でそれを感じられるなら、もちろんそれでいいわけです。

では、また来週。

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