prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「顔のないヒトラーたち」

2017年11月09日 | 映画
第二次大戦における非人道的行為に対する責任の取り方について、ドイツは責任をとってあらゆるナチス的な要素を公的活動から排除している、それにひきかえ日本は無責任でといった単純化された論調になることが多い。あるいはこれまた単純にドイツはナチスに全部責任を押し付けて一般国民は責任逃れした、と裏返して「反論」して終わりになる。

しかし、ドイツにしてもアウシュビッツで行われたことが公開され裁かれたのは自動的にあたりまえのようにそうなったのではなく、検事たちがそれを知り、法曹人として放っておけず困難を乗り越え営々として証拠を集め証人を探して1963年になってやっと裁判にこぎつけた結果なのだという事実を教える。

一方でアウシュビッツで「働いて」いた人間たちの保身と、直接ホロコーストに関わらなくてもナチスを支持したことで間接的に協力してきた人たちをいちいちすべて裁くのはムリということでうやむやにされてきたことをあえて明るみに出したわけで、それに伴う軋轢も描いている。検事自身の家庭にもブーメランが返ってきたりするのが典型。

とはいえ、ナチス裁判そのものを扱うと重くなり過ぎることが多いが、そこにこぎつけるまでを描くドラマとして爽快感があるのはありがたい。

主役のアレクサンダー・フェーリングがナチスが言うところのアーリア人(そんな人種は存在しないが)のイメージそのままというのが、何か皮肉。

調べなくてはいけない書類の量の膨大さや、ほとんど意地悪しているのではないかと思うくらいしつっこくチェックを求める上司など、検事の仕事というのも大変だなと思わせる。
一方で日本での検察と一般国民とがまるで乖離して意思の疎通がおよそ欠けていて、ちゃんと国民の方を向いているのか疑わざるを得ない現状も考えないではいられなかった。






11月8日(水)のつぶやき

2017年11月09日 | Weblog