prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「スペンサー ダイアナの決意」

2022年10月22日 | 映画
オープニング、軍隊の車列が朝の田舎道を爆走するシーンから始まり、そのタイヤすれすれの地面に鳥の死骸が転がっていて、今にも轢きやしないかひやひやする。
ラスト近く、やはり軍用車が走り、その車体すれすれに雉が飛び立つ。そして、雉撃ちの儀式で映画はクライマックスを迎えることになる。雉が軍=国に踏みつぶされそうになる存在=ダイアナのひとつのシンボルになっているのは明らかだろう。

冒頭で軍が運んできたトランクを開けると、食材が入っている。この屋敷でのクリスマスパーティが戦争とまではいかなくても、国事行為として位置づけられていて、食事もその一環であるのが端的に示される。
殺されて食べられるもの、としての雉にダイアナが自分を重ねているようで、それに対応するように拒食症の症状を見せる。

豪華なクリスマスディナーが用意される一方でいくら要求しても断固として暖房は入れられず、豪華で優雅な牢獄といった趣。
この優雅さを演出する撮影・美術・衣装のすばらしさ。

完全に古典的な三一致の法則に徹した作劇で、三日間のパーティーにしぼっただけでなく極端にダイアナの主観に寄せていて、強迫観念と実際の無形の圧力はほとんどニューロティックスリラーの感を呈している。

ダイアナはヘンリー八世の二番目の、夫の命によって断首された妃アン・ブーリンとも自分を同一視していて、ブーリンの伝記が何者かによってダイアナの枕元に置かれたりしている。本にハンス・ホルバインが描くところのヘンリー八世の肖像画が収録されているだけでなく、同じものが晩餐のホールにもかかっているというのはリアリズムからは外れているだろう。

ヘンリーは最初の妃のスペインから政略結婚で迎えたアラゴンのキャサリンとの間に当時の慣習として跡継ぎになるべき男の子が生まれなかったのを口実に別れてアンと再婚したがったわけだが、当時のイギリスはカソリックだったので離婚は認められなかったのを、強引にカソリックを離脱して英国国教会を作ってしまう、ところがそうやって再婚したものの女の子は生まれても男の子は生まれず、ヘンリーは結局アンを断頭台に送るわけだが、皮肉にもその女の子こそエリザベス女王となり大英帝国の礎を築くことになる。ただし処女王の異名をとるように生涯独身で過ごした。
ダイアナの子供たちがふたりとも男の子というのがまた皮肉で(今のダイアナの銅像にはもう一人象徴的な子供がつけ加えられているという)、彼女の強迫観念を和らげるのに息子たちが大きな役割を果たしたと推測される。

雉撃ちのシーンで、明らかに飛び立った雉が途中で撃ち落とされている(ように見える)。エンドタイトルで「この映画で動物を傷つけたりしていません」の定番の字幕が出た気がしなかったが、本当に撃っているわけもないがどうやって撮ったのか。

クリステン・スチュワートはさほどダイアナと似てはいないのだが、第一声はじめあちこちで四文字語を吐くなどフィクションでないとありえないアプローチで籠の鳥的な女性のプレッシャーと苛立ちにさいなまされる典型的なイメージを作って見せる。
それにしても脚が細くて長くて(実物のダイアナがこれだけ脚を見せたことあっっけ)古い表現だが、カモシカのような脚とはこのことという感じ。

ティモシー・スポール、サリー・ホーキンスといったマイク・リー監督の常連がお付き役で並んでいるのが目を引く。

しかし、これだけ突っ込んだ創作作品を日本の皇室で作れるかといったらちょっとムリだと思えるし、そう思ってしまうのはなぜかとも思う。
あれだけ周辺は(最近では小室圭氏とか)ほじくり回しているのにね。
後注·10月21日に小室氏は弁護士試験合格。






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