ユージン·スミスの写真展は東京都写真美術館で何度か催されているが、自分が見たのはあえてなのか水俣の写真以外を集めたものだった。
ちらっと冒頭で見えた二人の幼児が草木のトンネルを抜けていく「楽園への歩み ニューヨーク郊外」、第二次大戦でも沖縄だけでなくサイパンで追いたてられる日本人、米軍内部のスナップ、日本国内でも工場や労働者、地方を巡回する医師や助産師の組写真など。
強いてまとめると生活者の視点というのが基本にあるように思った。美的要素を追求するカメラマンというより、フォト・ジャーナリストという印象。
スミスの写真はモノクロばかりで、今の目で見るとかなり素朴な道具で現像定着をしているのが興味深く、水俣病で手が不自由な少年でもある程度扱えるくらい。
富士フイルムのカラーフィルムのCMに出るのにあたって、広告する品を実は使ってないのがバレると気にするのが妙に説得力ある。
しかし、モノクロ写真というのはここではちょっとしか出て来ないが、凄い触発力があるのを改めて思った。
ロケは日本ではなくセルビア、モンテネグロで行われたというのは聞いていたが、恐れていた程違和感はなかった。
エンドタイトルで流れる人たちの名前の多くに-vić がついている。現地の人たちだろう。
スミスがどうやって酒浸りからカメラマンあるいはフォトジャーナリストとしての命を甦らせるのかという過程は必ずしもわかりやすく辿れるようにはなっていない。というか、目覚めたり眠ったりといった感じ。
日本でも酒とタバコは手放していない(サントリーウイスキーを呑んでる)。
むしろすでにかなり身体が弱っている中の最後の一花といった印象。
デップはスミスをかなりヤケ気味にもなった危なっかしい人物として自分を被せているのではないかと想像した。
スミスがドラム缶風呂に入るシーンにかかるストリングスの曲が「ラスト·エンペラー」に似ているなーと思ったが、同じ坂本龍一だものね。
國村隼のチッソ社長が型通りの企業悪ではなく、どこか後ろめたさを感じているようながら立場上ああいう態度しかとれないといった日本にありがちなトップのニュアンスをよく出した。
ビル·ナイ(も、プロデュースに参加している)の期待を上回る仕事をスミスがしてきた時の編集者冥利につきるといった喜びの表現が見事。
真田広之の抗議者像が力強い。
見ていて、買収工作や放火などこれはリアリティーないのではないかと疑った描写は、案の定というか創作なのが後でわかった。
事実に基づくとはいってもハリウッド映画の大方が創作なのは知っているが、モチーフに対してこの創作が本当に必要なのか、相応しいものかといったら疑問。
こういう創作が混じっていても、水俣が知られるのは意義のあることではないかという意見と、外国(主に白人)の視点をそんなにありがたがることがあるのか、水俣を世界に知らしめるのに尽力した人は国内にも大勢いるという意見と両方あって、正直どちらにも理はあると思えて、どちらかに与するのは難しい。