prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ディボース・ショー」

2004年04月30日 | 映画
キャサリン・ゼダ・ジョーンズなんて出てこられると、こりゃたとえジョージ・クルーニーといえども手玉に取られるだろうなあ、と思わせる。わずかしか出ないが、ジェフリー・ラッシュやビリー・ボブ・ソーントンクラスの役者が出てくるのなら、何か後の展開で効いてくるのだろうなあと思っていると、これらがみんなその通りになる。それが悪いのではなく、商業演劇みたいな役者と役の組み立て方。みんな芝居上の見せ場が作ってある。展開とすると、殺し屋の登場と始末の仕方がいささか性急な観以外は、ツイストのたびにいちいち納得させる。

法律でいくら縛ってみても抜け道はあるというあたり、アメリカ人と日本人とではかなり見方が違うのではないか。愛(というか、パートナーに対する願望)と金がどっちも本音という感じが出ている。
(☆☆☆)


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「スクール・オブ・ロック」

2004年04月30日 | 映画
お堅い名門校の子供たちが、破天荒なロッカーの刺激を受けて自然な人間性に目覚めていくなんてありがちな話だったらちょっとイヤだな、今のロックは初めの頃のような反抗の音楽ではなくなって商業的に丸くなってきているから、偽善になりはしないかと心配した。

そうなっていないのは、ロックをやっていく生徒たちがちゃんとクラシックの演奏教育を習っているという設定(名門校ならでは)で、しかもその技術が並々ならぬものであることが見て聞いていればすぐわかってくる。子供たちは芝居ではなく音楽の技術の方で選ばれたそうだが、なるほど子役にありがちな悪達者な印象は薄い。

ベースの大事さを外していないのは、例えばカリキュラムが初めデタラメだったのが自然にロックの歴史や実物の鑑賞なんてのが入ってくるあたりにも見て取れる。博打を子供に教えるような格好だけのロッカーの否定的な描き方など、ずいぶん教育的配慮が行き届いている(脚本は同居人役で出演もしているマイケル・ホワイト)。

「スクール・オブ・ロック」とは案外含みのある表現。次々と挙げられるアーティストやアルバムの名前を見ていると、ロックも歴史を持つようになり、習ったり教えたりするのがおかしくないものになったのだなと今更だが思う。大昔の歌舞伎もこういう過程を辿ったのではないかと、ちらっと思った。学校で習うものは、というより学校で習わされたら何でもヒモノになってしまう、という発想の風土からはこういうものはまず出てこない。

ジャック・ブラックの動きっぷりは、ジム・キャリーが出てきた頃以来の驚異。
(☆☆☆★★)


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