金よりも尊い試練

 「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(1ペテロ1:6-7)

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 この聖句は、おそらくは迫害のことを試練と位置づけているのではないかという気がする。
 しかし、「信仰の試練」は、もっと広範な意味を持つような気もする。

 相手に対して怒り怒鳴るとき、彼には「イエス」が忘れ去られている。
 身体的にしんどいとき、しばしば「イエス」は忘れ去られる。
 こういったことも含めて、「信仰の試練」、即ちイエスへの信仰が試されているように思う。

 そういうところをあきらめて投げ出さずにイエスを内在させてゆけるならば、まさしくその試練は「金よりも尊い」と思える。
 日本のことわざでいえば、「苦労は買ってでもしろ」というのに近いと思う。

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 さて、一泊二日の旅行から帰ってきた。
 上に書くことは、その旅行の中で予め決めていた。
 もう寝ようという21時頃、電話が掛かってきた。
 母が急逝した。
 近所の人が不審に思い警察を呼び、警察の人が家の中にはいると、台所で倒れていて、既に亡くなっていたのだそうだ。
 今現在も実況見分だの貴重品の盗難だのの取り調べが続いているという。

 誰に看取られることなく、しかし神の許しが出たので(「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29))、静かに生を全うした。

 私は「形を変えた試練」に入る。

 こういうプライベートなことを書くのもどうかと思ったのだが、書いてみた。
 「記録」として、遺しておきたかった。
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