イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
信仰のことば
「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)
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上の引用聖句には、二箇所、悩ましい語句がある。
まず「なぜなら」。
これはこういうことだろう。
すなわち、あなたを救いたくて「信仰のことば」を宣べ伝えているのですよ、と。
その「信仰のことば」というのは、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というもの。
まず、「近く」にみことばがある。聖書を手にするかしないかといったあたりだろうか。
しばらくすると、「口」にみことばがあるようになる。いつも口にしている、絶えず読んでいる、そういうあたりだろうか。
そうしてみことばは結実して、「心にある」というようになる。これが救いであり、信仰そのものである。
この信仰ということについて、イエスはこう仰る。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコ10:15)
「子どものように神の国を受け入れる」、これは「みことば」が「心にある」ということと同じである。
この信仰のことばを伝えることによって、幾人かでも救いたい。宣べ伝えるとは、そういうことだ。
さて、もうひとつの悩ましい語句。
「告白」。
この語句は聖書に頻出するのだが、いずれも私には解釈しきれない。
仮に古代ギリシャ語を学んだとしても、分からないだろう。
「告白」というからには、相手というものがいるはずだ。
その相手としてどのような性質の人間を想定すればいいのであろうか。
単数なのか、多数なのか。
それに恋愛で告白するといったら、告白するの相手は恋心を抱いた対象だ。すると、「信じた」と口で告白する相手は、神だろうか…。
そういうわけで有名な10節についても、私はよく分からない。
ただ、私のあるじはイエスなのだ。
なぜなら、信仰のことばに触れ続けている内にイエスが復活して私の元を訪れ、そのときはじめて信仰のことばをほんとうに知ったからだ。
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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)
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上の引用聖句には、二箇所、悩ましい語句がある。
まず「なぜなら」。
これはこういうことだろう。
すなわち、あなたを救いたくて「信仰のことば」を宣べ伝えているのですよ、と。
その「信仰のことば」というのは、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というもの。
まず、「近く」にみことばがある。聖書を手にするかしないかといったあたりだろうか。
しばらくすると、「口」にみことばがあるようになる。いつも口にしている、絶えず読んでいる、そういうあたりだろうか。
そうしてみことばは結実して、「心にある」というようになる。これが救いであり、信仰そのものである。
この信仰ということについて、イエスはこう仰る。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコ10:15)
「子どものように神の国を受け入れる」、これは「みことば」が「心にある」ということと同じである。
この信仰のことばを伝えることによって、幾人かでも救いたい。宣べ伝えるとは、そういうことだ。
さて、もうひとつの悩ましい語句。
「告白」。
この語句は聖書に頻出するのだが、いずれも私には解釈しきれない。
仮に古代ギリシャ語を学んだとしても、分からないだろう。
「告白」というからには、相手というものがいるはずだ。
その相手としてどのような性質の人間を想定すればいいのであろうか。
単数なのか、多数なのか。
それに恋愛で告白するといったら、告白するの相手は恋心を抱いた対象だ。すると、「信じた」と口で告白する相手は、神だろうか…。
そういうわけで有名な10節についても、私はよく分からない。
ただ、私のあるじはイエスなのだ。
なぜなら、信仰のことばに触れ続けている内にイエスが復活して私の元を訪れ、そのときはじめて信仰のことばをほんとうに知ったからだ。
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