『復活』という救い

 「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(1コリント15:16-22)

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 「アダムにあってすべての人が死んでいる」のである。

 アダムが善悪と知識の実を食した違反が、人間の肉に罪をもたらした。
 その「死んでいる」状態を、キリストが「生かされ」た状態へと救い出してくださる。
 なぜなら、キリスト御自身が、死んで復活したからである。
 それも最高刑・十字架による死から復活されたので、どのような悪人をも、お救いになることができる。

 このキリストの復活がもしなかったとすると、いったいイエスは、どのような方法によって人間をお救いになるというのだろうか。
 病人の癒しも死人のよみがえりも五千人の給食も、イエスがキリストであると信じさせたくてなさっていることで、それらのわざ自体は救いでも何でもない。
 だから、「この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」というのは、本当にその通りだ。
 キリストに求めるものは、罪深い肉の赦しという救いである。
 病気のいやしや貧困からの脱出をキリストに求めるとすれば、それは哀れと言うほかない。

 死者が実際によみがえることについては、確実なことは私には何も書けないが、個人的には信じきっている。

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