あがない

 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(ローマ3:21-25)

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 創世記、ノアの洪水が収まったあとの箇所に、こうある。

 「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」(創8:20-21)

 「人の心の思い計ることは、初めから悪」。
 ノアがささげた全焼のいけにえのかおりをかがれた神は「すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」と思い直す。

 人は悪いことばかり考えてるから、事ごとにいけにえをささげるのだろう。
(レビ記に細かく記載されている。)
 ところが、神であるイエス御自身が、「十字架」といういけにえになられた。
 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」。
 そうして「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」。

 たぶん相変わらず、人は悪いことばかり考えてる。私だって、そうだ。
 だが、「価なしに義と認められる」ので、もう「全焼のいけにえ」をささげる必要は、ない。
 そのことを指して「贖い」というのかも知れない。
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