イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスの与える平安
「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
---
イエスは私たちが平安を持つためにこれらのことを話したという。
では、イエスが与える平安とはどのようなものであろうか。
まずはこの平安とはやや異なるものを小説の一節から取り上げる。
「数学問題の懸賞問題が解け、レポート用紙に清書し、郵送する前にもう一度見直しているような時、博士はしばしば、自分の導き出した解答に満足しつつ、「ああ静かだ」とつぶやいた。」
(小川洋子 著、「博士の愛した数式」、文庫版p.101)
この静かさについては、私自身、仕事をしていてしばしば味わうのでよく分かる。
それはもちろん好ましくほんとうに心地のよい静かさなのだが、次の仕事が始まれば再び混沌の中に消え去ってしまう。つまり、この静かさは、ある状態から抜け出たときに味わう一過性のものにすぎず、いつもあるものではない。
それとは違ってイエスの与える平安、安らかさは、恒常的に存在している。
御父がいつも共にいてくださるので、ひとりのようでひとりではない。
陰に陽に支えてくださり、そっと導いてくださる。
患難の中にあるときも変わることなく、表面的には翻弄されても底のところではゆるぎない。
実はここ数ヶ月、患難の中にあった。もうしばらく続きそうだが、世のすさまじさを身をもって知った。
気持ちに余裕はなくなったが自分を見失わずに済んでいるのは、やはりイエスのおかげだと思う。
彼らに頭を垂れることそれ自体は訳もないが、自分にはそれはできない。到底できない。
イエスは世に勝ったと言うが、多分こういうことなのではないかと今は思う。
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健やかな一日をお祈りします!
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わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
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イエスは私たちが平安を持つためにこれらのことを話したという。
では、イエスが与える平安とはどのようなものであろうか。
まずはこの平安とはやや異なるものを小説の一節から取り上げる。
「数学問題の懸賞問題が解け、レポート用紙に清書し、郵送する前にもう一度見直しているような時、博士はしばしば、自分の導き出した解答に満足しつつ、「ああ静かだ」とつぶやいた。」
(小川洋子 著、「博士の愛した数式」、文庫版p.101)
この静かさについては、私自身、仕事をしていてしばしば味わうのでよく分かる。
それはもちろん好ましくほんとうに心地のよい静かさなのだが、次の仕事が始まれば再び混沌の中に消え去ってしまう。つまり、この静かさは、ある状態から抜け出たときに味わう一過性のものにすぎず、いつもあるものではない。
それとは違ってイエスの与える平安、安らかさは、恒常的に存在している。
御父がいつも共にいてくださるので、ひとりのようでひとりではない。
陰に陽に支えてくださり、そっと導いてくださる。
患難の中にあるときも変わることなく、表面的には翻弄されても底のところではゆるぎない。
実はここ数ヶ月、患難の中にあった。もうしばらく続きそうだが、世のすさまじさを身をもって知った。
気持ちに余裕はなくなったが自分を見失わずに済んでいるのは、やはりイエスのおかげだと思う。
彼らに頭を垂れることそれ自体は訳もないが、自分にはそれはできない。到底できない。
イエスは世に勝ったと言うが、多分こういうことなのではないかと今は思う。
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