聖書を目的としてでなく手段として扱う人の残念さ

 「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……
 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)

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 支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。

 聖書というのは、力である。御言葉の力だ。
 正に、「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」である。
 死者をも生き返らせ、生ける死人をよみがえらせる、御言葉の力はそれほどの力だ。
 このような力を持つものを、私はほかに知らない。

 だから、聖書の言葉を観念的にもてあそぶだけのサドカイ人を、むしろ同情する。かわいそうなやつだなあ、と。
 イエスが言うように、聖書についてとんだ思い違いをしている。
 というより、聖書は目的なのではなく、単に手段なのかもしれない。
 だからこそ支配者階級になれたのだろうが、聖書のなんたるかは最早わかりようもない。

 聖書のことばが恵みによって否応なく飛び込んでくると、この聖書の力がその人のうちに発揮されて大きな転回が起こる。
 上でけなして書いた支配者階級の連中にも、チャンスはある。それも膨大にある。

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[一版]2010年 8月 1日
[二版]2016年 9月 4日
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[四版]2022年 7月31日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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