かたくなな心

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 ラザロのしるしを目の当たりにした多くの人々は、イエスを神の子とは信じなかった。
 イザヤによれば、御父が彼らの目を盲目にし、彼らの心をかたくなにされたからだという。
 なにより、「祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」(ヨハネ11:57)という状況にあったのだから、多くの人々はイエスを色眼鏡で見ていたに違いない。
 そうであるなら、イエスが何をしても何を言っても、ラザロをよみがえらせてすら、この群衆は舌打ちをするだろう。
 世の常として、自分の仲間内が過ちを犯しても大目に見るが、敵対する人がどんなに成功しても心の中で冷ややかに舌打ちするものであり、神の子イエスもこの世の常にさらされ続けた。
 このことを指して、御父はイザヤを通してかたくなな心と仰ったのかもしれない。

 しかし、私たち人間がこんなにかたくなであっても、復活のイエスの方から私たちに会いに来てくれるのである。
 このことについて、イエスは「わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示3:20)と約束している。
 そしてこのとき、私たちのかたくなさは瞬時にして解けイエスを分かるようになる。サウロがまさにそうであった。
 このように、信仰は獲得するものではなく与えられるものであり、この神からの大きな愛を受けて、私たちは瞬時に回心していやされる。

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 健やかな一日をお祈りします!

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