イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
こんなにすばらしい救い
「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:1-4)
---
ヘブル書は、思い出せないほどひさしぶりに開いた。
「こんなにすばらしい救い」。
これに与りたいから、「聞いたこと」を心に蓄える。そして「ますますしっかり心に留め」てゆく。
だから、私のようにさぼってなんかいないで、聖書をたくさん、そして何度も読み続けることは、非常に大切だ。
聖書を読み続けるというのは、種を蒔く作業だ。
イエスが話された「種まきのたとえ」と全く同じことで、ある人は何十倍もの実を結ぶ。
これが「救い」で、ほんとうにあることだ。
そのために、神は「しるしと不思議とさまざまの力あるわざ」をお使いになられる。
まあ正直なところ「しるし」と「力あるわざ」はぴんと来ないが、確かに「不思議」極まりない。
アウグスティヌスは「書を開け!」という稚児の声を聞き、訳も分からずロマ書を開いて、そこで救われた。
不思議なことだ。
私の分からないのは、これをどうすれば「ないがしろ」にできようか、ということだ。
例えば、生きている以上試練は多々あるのだが、その試練に遭ったときにヤケを起こしたくて、ほんとうにヤケを起こしてしまったとか、そういう場合が「ないがしろ」だろうか。
「こんなにすばらしい救い」なのだから、たいがいのことは大丈夫のはずだ。
「救い」というのを、私はイエスとの出会いの類に捉えている。
そしてイエスは御内住下さる。
このイエスと共に歩めば、大丈夫だ。
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もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル2:1-4)
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ヘブル書は、思い出せないほどひさしぶりに開いた。
「こんなにすばらしい救い」。
これに与りたいから、「聞いたこと」を心に蓄える。そして「ますますしっかり心に留め」てゆく。
だから、私のようにさぼってなんかいないで、聖書をたくさん、そして何度も読み続けることは、非常に大切だ。
聖書を読み続けるというのは、種を蒔く作業だ。
イエスが話された「種まきのたとえ」と全く同じことで、ある人は何十倍もの実を結ぶ。
これが「救い」で、ほんとうにあることだ。
そのために、神は「しるしと不思議とさまざまの力あるわざ」をお使いになられる。
まあ正直なところ「しるし」と「力あるわざ」はぴんと来ないが、確かに「不思議」極まりない。
アウグスティヌスは「書を開け!」という稚児の声を聞き、訳も分からずロマ書を開いて、そこで救われた。
不思議なことだ。
私の分からないのは、これをどうすれば「ないがしろ」にできようか、ということだ。
例えば、生きている以上試練は多々あるのだが、その試練に遭ったときにヤケを起こしたくて、ほんとうにヤケを起こしてしまったとか、そういう場合が「ないがしろ」だろうか。
「こんなにすばらしい救い」なのだから、たいがいのことは大丈夫のはずだ。
「救い」というのを、私はイエスとの出会いの類に捉えている。
そしてイエスは御内住下さる。
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