イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
人間の道
「主よ。私は知っています。
人間の道は、その人によるのでなく、
歩くことも、その歩みを確かにすることも、
人によるのではないことを。」(エレミヤ10:23)
---
今回はエレミヤ書。
もしかすると、イザヤ書を引用したことはあるかも知れない。
が、イザヤ書以外の預言書は、間違いなく初めてだ。
では何故エレミヤ?
「たまたまぱらりとめくれたから」、たったこれだけのことにすぎない。
そして聖書は、こんな時にも大きな気付きと慰めを与えてくれる。
教会にいた頃、こういう聖書の読み方を「あみだ読み」と名付けていた人がいた。
なるほど、これはあみだくじっぽく、しかも外れなく「大吉」だ。
神の怒りが書いてある箇所がぱらりとめくれてすら、やはり「大吉」だ。
自力でどうこうというのは、やはり「人間の道」からは外れてしまうようだ。
「委ねる」、この一言に尽きるのだろう。「神に委ねる」。
このことを「他力本願」と言おうが、内実がおんなじであるなら、一向に構わない。
もっぱらそのことについて、改めて「主よ。私は知っています(忘れかけてましたけど)」と祈りを捧げ続け、そうこうしてゆくうちに御許に帰るのだろう。
ただ、聖書でいうところの「委ねる」というのは、宝くじを買い込み当選を祈念しつつ待ち続けるような姿勢とは、全く異なる。
寧ろ、金銭であれ、時間であれ、労働であれ、手間であれ、更には笑顔といった些細なものでも、「与える」ということ、そして「与えてどうなるかを委ねる」ものではなかろうか。
主よ、すべては御手の中にありますゆえ、あなたに改めてお委ねいたします。
人間の道は、その人によるのでなく、
歩くことも、その歩みを確かにすることも、
人によるのではないことを。」(エレミヤ10:23)
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今回はエレミヤ書。
もしかすると、イザヤ書を引用したことはあるかも知れない。
が、イザヤ書以外の預言書は、間違いなく初めてだ。
では何故エレミヤ?
「たまたまぱらりとめくれたから」、たったこれだけのことにすぎない。
そして聖書は、こんな時にも大きな気付きと慰めを与えてくれる。
教会にいた頃、こういう聖書の読み方を「あみだ読み」と名付けていた人がいた。
なるほど、これはあみだくじっぽく、しかも外れなく「大吉」だ。
神の怒りが書いてある箇所がぱらりとめくれてすら、やはり「大吉」だ。
自力でどうこうというのは、やはり「人間の道」からは外れてしまうようだ。
「委ねる」、この一言に尽きるのだろう。「神に委ねる」。
このことを「他力本願」と言おうが、内実がおんなじであるなら、一向に構わない。
もっぱらそのことについて、改めて「主よ。私は知っています(忘れかけてましたけど)」と祈りを捧げ続け、そうこうしてゆくうちに御許に帰るのだろう。
ただ、聖書でいうところの「委ねる」というのは、宝くじを買い込み当選を祈念しつつ待ち続けるような姿勢とは、全く異なる。
寧ろ、金銭であれ、時間であれ、労働であれ、手間であれ、更には笑顔といった些細なものでも、「与える」ということ、そして「与えてどうなるかを委ねる」ものではなかろうか。
主よ、すべては御手の中にありますゆえ、あなたに改めてお委ねいたします。
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