罪人だった

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-9)

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 私は罪人だった。
 今だって、こころの中は汚らしいものだし、行いだってほめられたものではない。

 しかし、見てしまった、「キリストが私たちのために死んでくださった」のを。
(見させてくださったのだが。)
 その光景に圧倒され、私は自身を罪人と認めざるを得なくなってしまった。
 ちなみにそれまでは、自分自身について、何とも思っていなかった。
 「神の怒りから救われる」には、まず自分が神の怒りを買う存在であることが分かる必要が、ある。

 そして、その時流されたキリストの血は同時に、神の怒りからの救いをもたらしてくれる。
 「救い」、それは、責められない、穏やかな湖のような、といおうか。
 上述のように、こころが汚らしくたって、ひどい行いだって、この方からの責めから解放されるのだ。
 一方で、罪の自覚に至っていないならば、得るものも何もないだろう。
(罪というものを言語化できるものでもないとも思う。)
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