信仰は律法の確立

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 パウロは少し前にも、「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。」(ローマ3:8)とぼやいてみせる。
 あるいは両者の溝は埋まらないのかも知れない。
 というのも、信仰は、あるかないかのどちらかしかなく、ない者にとっては、ある者のことが理解できない。
 だが、ない者が恵みによってある者となるよう、パウロはなおも準備し続ける。

 結論から書くと、律法こそ信仰への跳躍台なのである。
 跳躍台によって飛んだ後は、その跳躍台は用済みになる。
 用済みだが、律法の位置付けがはっきりと分かるので、「律法を確立することになる」。
 だから、律法を無効にしてしまったように見えるとしたら、それは全く違う。

 神の完全な秩序であるところの律法。
 これを守ろうとすればするほどに、私たちは守れない。それも全く守れない。
 守れないときに生じるのが罪および罪の意識で、つまり律法は肉の罪を浮き上がらせる。
 この罪まみれの肉は極刑に相当するほどで、そのような私たちを救うために罪のない肉のイエスが身代わりに十字架に架かって死に、三日目によみがえる。
 このイエスを信じる者は、イエスが復活したようにその罪が赦され、神と和解することができる。イエスが仲介人となってくれたのだ。

 律法を無効にするというのは、むしろ、律法を知ったのに律法に背を向け、罪を罪とも認めないことを指す。
 ただ、両者は外形的にはあまり違いなく見えるのかも知れない。
 しかし、両者の違いは実が証明するだろう。

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