信仰義認

 「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:26-28)

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 いわゆる「信仰義認」。

 「信仰」とは、「行ない」にとって代えられた原理である。
 つまり、神から義とされるのは、律法の遵守によってではなく、「イエスを信じる者を義とお認めになる」ことによる。
 「行ない」は他人よりもよりよく遵守している、という比較の世界になってしまい、それが「誇り」を生みだしてしまう。
 ところが、「信仰」は、あるかないかのどちらかしかない。
 そしてそれは、自分の努力によってはどうしようもなく、恵みによって一方的に与えられたものなので、誇ろうにも誇りようがない。

 いってみれば、恵みは自らの功績とは違うので、努力、修行や座学の類によって十字架と復活に預かることはないだろう。
 神からの一方的な恵みこそ、私たちに十字架と復活を知らしめてくれるのである。そして、信仰せざるを得なくなる。

 このように、恵みにより与えられて誇りようのない「信仰」こそ、その人を罪深い肉から解放して「いのち」を与えるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2009年8月30日付記事に筆を加えたものです。

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