朝から浦臼町で開催された「ぼたん蕎麦収穫祭」に参加してきました。新そばの季節は蕎麦イベントの多い季節です。今日も快晴
さて今日は、
■「永田地名解」について
■浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼 の2本です。
【永田地名解について】
今日登場する北海道の地名は浦臼(うらうす)町である。「ウラウス」なんていかにもアイヌ語地名である。
浦臼のいわれについて手元の山田秀三著「北海道の地名」を調べてみた結果を早速紹介したいところだが、その前にせっかくなので、北海道の地名を訪ねる上で欠かせない資料である「永田地名解」について一言だけ触れておきたい。
「永田地名解」は正確には「北海道庁属永田方正著北海道蝦夷語地名解」と言い、永田方正氏が北海道内を調査した結果を明治24(1891)年に刊行したものである。
ここから先は、山田氏の「北海道の地名」から「主な引用文献について」の部分で語られているところから引用させて頂く。(《》内は私の注釈で、また一部は現代語表記に改めた)
* * * *
…彼(永田氏)は巻頭の序文でアイヌ語地名を論じ『簿記に地図にその訛謬《なまりや誤り》少しとせず。かつアイヌと言えども久しく和人に接する者及び壮年輩に至ってはすこぶる《非常に》訛音あり。地名の言語は唯古老の頭上にありて存するのみ。もし古老アイヌ死すれば、地名もまたそれに従って亡ぶ』と書いた。まだアイヌ語が日常語として生きていたその当時でもそうだったのだ。
だがその彼でも、『古老アイヌを雇い質したる年月は実に一年に満たず。是れ主務の余暇をもって各地へ出張せしに因るなり』と書いた。広い北海道である。自分で行って古老に聞けない地方については、そのころの測量図を見て自分で解を考えて書いたのはやむを得ないことだった。だがその部分の解には疑問の部分が特に多い。
今になってみると、とにかく6千余の地名を当時残っていた音で採録しておいてくれたことは実にありがたい。アイヌ語地名を調べる人でこの書を読まない人はいない。不朽の名著である。
親友知里(知里真志保:ちりましほ)博士はその著アイヌ語入門(昭和31=1956年)の中で48項も使って永田地名解の誤りを徹底的に指摘し、名著か迷著かと書いた。そのために、この書に触れない研究者も出てきたらしい。
知里さんと私は地名研究の棒組みで、いつも二人で調査に歩いたが、彼はその時に必ず永田地名解を持って来ているのだった。「君は自分で迷著だと書いたその本をどうして持ってくるのだ」というと、「いやこの本の誤りの点が分からない人が使うと迷著だ。分かっている人が読めば名著ですよ」と笑った。
正にその通りである。金田一先生や知里さんのお陰で、アイヌ語学は永田方正の時代とは遙かに進歩した。知里さんのアイヌ語入門を読まれた上で、永田地名解を使っていただけたら、この書は何物にも替え難い貴重な名著である。
* * * *
永田地名解は「間違いだらけ」というイメージが強かったのだが、この一文を読んで、改めてその価値を再認識じたのだった。
ね、「地名は北海道の財産だ!」という気がしてきたでしょう?
多くの先人のドラマがそこにある
【浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼】
さて、浦臼町である。
浦臼町は北海道の中西部、空知支庁管内のほぼ中央に位置し、面積101.08キロ平方メートルで、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれたところの農業中心の町だ。
これだけの広さがありながら、17年8月末現在の人口は2513人というから、町をに維持して行くのもさぞ大変なことだろう。
浦臼という名前も、いかにもアイヌ語地名なので早速手元の山田秀三著「北海道の地名」を調べてみた。
すると「浦臼内」とあって「川の名。浦臼駅あり。永田地名解によるとウラシ・ナイ=笹川であり、また駅名の起源は『ウライ・ウシ・ペッ=梁が多い川』の転訛である。昔鮭鱒が豊かだったので、梁をかけたところから名付けられたものである」と紹介されていた。
この二つの地名は道内随所で混ざり合っていてその源の判別が難しいのだそうだ。山田氏自身は最終的にはその両者の要素が混ざり合ったのだろう、と考えているようだ。
* * * *
さてこの浦臼町は「ぼたんそば」という蕎麦の品種の作付面積が北海道一を誇るのだそうで、それは知らなかった。 そこで浦臼町ではその収穫の時期に合わせて、蕎麦イベントを行っている。それが「浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼」というわけ。
会場は浦臼町内の鶴沼公園で、ここの広場に全道から12の愛好会による蕎麦販売ブースが立ち並び、あるいは町内の物産売り場が展開した。
私は今回は打ち手不足の浦臼手打ち蕎麦愛好会のお手伝いとして参加したのである。朝7時現地集合と言うことで、朝5時起きで車を飛ばして現地入り。
現地では倉庫や用意されたスーパーハウスの中で何人もが蕎麦打ちに励んでいる。浦臼の皆さんとお手合わせをするのは初めてだが、実行委員会の知人に紹介されて早速仲間入り。
あとはひたすら「こねてはのして切る」の連続。そば粉は地元産のぼたん蕎麦で約50kgが割り当てられていて、大体500食分の見当だ。
幸い、ゆでたり洗ったり盛りつけたりする人たちはある程度揃っているので、今日はひたすら蕎麦打ちに徹することが出来る。6玉で10kgほどを打って、なんとか大玉の感覚を取り戻しました。
あまり一生懸命に打ったので、右手の人差し指と薬指の爪の付け根がやけどで皮がむけました。イテテテ。
* * * *
会場には12の同好会のテントが立ち並んで、それぞれ個性あるメニューで来客を迎えている。人気なのは地元うらうす手打ち蕎麦愛好会と幌加内うたん会、さらには奈井江道光会などで、これらのテントには長蛇の列ができた。
一方ではまだ知名度の低い同好会のところは最初のうちは閑散としていて、「売れ残ったりしないだろうか」とちょっと心配。
ところが昼一時過ぎには「もう浦臼の分は売り切れたみたいよ」という連絡が入ってやや拍子抜け。「もっと打たなくて良いのですか?」と訊くと「そば粉も使い捨ての丼も割り当てがあるんだって」とのこと。
よくよく聞いてみると、昨年までは丼なども追加注文を事務局にお願いすればどんどんくれたらしいのだが、それでは「売れるところと売れないところの差が大きくなってしまう」ということで、今年からは各同好会に均等に500個の丼を配分することにしたのだそうだ。
売り切れたテントでは早々と「売り切れ御礼」の紙を下げ、それをみた来場者はまだ売っている別のテントへと向かう。
「イベントなんだから、売れて売れて儲かるなんてことを考えずに、お客さんが美味しく蕎麦を食べられて、各同好会もそれぞれ楽しめれば良いんだよね。変に打ちの方が売れたなどと競争しなくても、さ」とはある知人の声。
競争で腕を磨きあうということもあるのだろうけれど、参加した者全員に幸せがほぼ均等に配分されるというシステムもこれまたある面では有効なのだなあ。
競争による切磋琢磨だけが絶対善ではないということの見本みたいなものだ。
* * * *
ところで、今日のそば粉は各同好会皆同じなのだけれど、それぞれの会ではキノコそばにしたり鴨南蛮にしたり、天ぷら蕎麦にしたりと工夫をしていて、食べ歩きも楽しいかも知れない。
もっともお年寄りに言わせると「量が多くて食べ歩ききれない」という声もあるよう。一杯500円ではなく、2~3千円でわんこそばくらいの容器を用意して「各テントの蕎麦を食べ放題!」なんてしたら、案外受けるのではないかと思った次第。
これだけの会がそろい踏みをするのはなかなか壮観だけど、私もあちこち挨拶しながら味見をしたけれど、3杯が限度。蕎麦も案外量は食べられないものですよ。
体を動かして友人、知人と話をして美味しい蕎麦にありつける。蕎麦イベントに参加することはまさにストレス解消にうってつけである。
さて今日は、
■「永田地名解」について
■浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼 の2本です。
【永田地名解について】
今日登場する北海道の地名は浦臼(うらうす)町である。「ウラウス」なんていかにもアイヌ語地名である。
浦臼のいわれについて手元の山田秀三著「北海道の地名」を調べてみた結果を早速紹介したいところだが、その前にせっかくなので、北海道の地名を訪ねる上で欠かせない資料である「永田地名解」について一言だけ触れておきたい。
「永田地名解」は正確には「北海道庁属永田方正著北海道蝦夷語地名解」と言い、永田方正氏が北海道内を調査した結果を明治24(1891)年に刊行したものである。
ここから先は、山田氏の「北海道の地名」から「主な引用文献について」の部分で語られているところから引用させて頂く。(《》内は私の注釈で、また一部は現代語表記に改めた)
* * * *
…彼(永田氏)は巻頭の序文でアイヌ語地名を論じ『簿記に地図にその訛謬《なまりや誤り》少しとせず。かつアイヌと言えども久しく和人に接する者及び壮年輩に至ってはすこぶる《非常に》訛音あり。地名の言語は唯古老の頭上にありて存するのみ。もし古老アイヌ死すれば、地名もまたそれに従って亡ぶ』と書いた。まだアイヌ語が日常語として生きていたその当時でもそうだったのだ。
だがその彼でも、『古老アイヌを雇い質したる年月は実に一年に満たず。是れ主務の余暇をもって各地へ出張せしに因るなり』と書いた。広い北海道である。自分で行って古老に聞けない地方については、そのころの測量図を見て自分で解を考えて書いたのはやむを得ないことだった。だがその部分の解には疑問の部分が特に多い。
今になってみると、とにかく6千余の地名を当時残っていた音で採録しておいてくれたことは実にありがたい。アイヌ語地名を調べる人でこの書を読まない人はいない。不朽の名著である。
親友知里(知里真志保:ちりましほ)博士はその著アイヌ語入門(昭和31=1956年)の中で48項も使って永田地名解の誤りを徹底的に指摘し、名著か迷著かと書いた。そのために、この書に触れない研究者も出てきたらしい。
知里さんと私は地名研究の棒組みで、いつも二人で調査に歩いたが、彼はその時に必ず永田地名解を持って来ているのだった。「君は自分で迷著だと書いたその本をどうして持ってくるのだ」というと、「いやこの本の誤りの点が分からない人が使うと迷著だ。分かっている人が読めば名著ですよ」と笑った。
正にその通りである。金田一先生や知里さんのお陰で、アイヌ語学は永田方正の時代とは遙かに進歩した。知里さんのアイヌ語入門を読まれた上で、永田地名解を使っていただけたら、この書は何物にも替え難い貴重な名著である。
* * * *
永田地名解は「間違いだらけ」というイメージが強かったのだが、この一文を読んで、改めてその価値を再認識じたのだった。
ね、「地名は北海道の財産だ!」という気がしてきたでしょう?
多くの先人のドラマがそこにある
【浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼】
さて、浦臼町である。
浦臼町は北海道の中西部、空知支庁管内のほぼ中央に位置し、面積101.08キロ平方メートルで、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれたところの農業中心の町だ。
これだけの広さがありながら、17年8月末現在の人口は2513人というから、町をに維持して行くのもさぞ大変なことだろう。
浦臼という名前も、いかにもアイヌ語地名なので早速手元の山田秀三著「北海道の地名」を調べてみた。
すると「浦臼内」とあって「川の名。浦臼駅あり。永田地名解によるとウラシ・ナイ=笹川であり、また駅名の起源は『ウライ・ウシ・ペッ=梁が多い川』の転訛である。昔鮭鱒が豊かだったので、梁をかけたところから名付けられたものである」と紹介されていた。
この二つの地名は道内随所で混ざり合っていてその源の判別が難しいのだそうだ。山田氏自身は最終的にはその両者の要素が混ざり合ったのだろう、と考えているようだ。
* * * *
さてこの浦臼町は「ぼたんそば」という蕎麦の品種の作付面積が北海道一を誇るのだそうで、それは知らなかった。 そこで浦臼町ではその収穫の時期に合わせて、蕎麦イベントを行っている。それが「浦臼産ぼたんそば 新そば収穫祭 in 浦臼」というわけ。
会場は浦臼町内の鶴沼公園で、ここの広場に全道から12の愛好会による蕎麦販売ブースが立ち並び、あるいは町内の物産売り場が展開した。
私は今回は打ち手不足の浦臼手打ち蕎麦愛好会のお手伝いとして参加したのである。朝7時現地集合と言うことで、朝5時起きで車を飛ばして現地入り。
現地では倉庫や用意されたスーパーハウスの中で何人もが蕎麦打ちに励んでいる。浦臼の皆さんとお手合わせをするのは初めてだが、実行委員会の知人に紹介されて早速仲間入り。
あとはひたすら「こねてはのして切る」の連続。そば粉は地元産のぼたん蕎麦で約50kgが割り当てられていて、大体500食分の見当だ。
幸い、ゆでたり洗ったり盛りつけたりする人たちはある程度揃っているので、今日はひたすら蕎麦打ちに徹することが出来る。6玉で10kgほどを打って、なんとか大玉の感覚を取り戻しました。
あまり一生懸命に打ったので、右手の人差し指と薬指の爪の付け根がやけどで皮がむけました。イテテテ。
* * * *
会場には12の同好会のテントが立ち並んで、それぞれ個性あるメニューで来客を迎えている。人気なのは地元うらうす手打ち蕎麦愛好会と幌加内うたん会、さらには奈井江道光会などで、これらのテントには長蛇の列ができた。
一方ではまだ知名度の低い同好会のところは最初のうちは閑散としていて、「売れ残ったりしないだろうか」とちょっと心配。
ところが昼一時過ぎには「もう浦臼の分は売り切れたみたいよ」という連絡が入ってやや拍子抜け。「もっと打たなくて良いのですか?」と訊くと「そば粉も使い捨ての丼も割り当てがあるんだって」とのこと。
よくよく聞いてみると、昨年までは丼なども追加注文を事務局にお願いすればどんどんくれたらしいのだが、それでは「売れるところと売れないところの差が大きくなってしまう」ということで、今年からは各同好会に均等に500個の丼を配分することにしたのだそうだ。
売り切れたテントでは早々と「売り切れ御礼」の紙を下げ、それをみた来場者はまだ売っている別のテントへと向かう。
「イベントなんだから、売れて売れて儲かるなんてことを考えずに、お客さんが美味しく蕎麦を食べられて、各同好会もそれぞれ楽しめれば良いんだよね。変に打ちの方が売れたなどと競争しなくても、さ」とはある知人の声。
競争で腕を磨きあうということもあるのだろうけれど、参加した者全員に幸せがほぼ均等に配分されるというシステムもこれまたある面では有効なのだなあ。
競争による切磋琢磨だけが絶対善ではないということの見本みたいなものだ。
* * * *
ところで、今日のそば粉は各同好会皆同じなのだけれど、それぞれの会ではキノコそばにしたり鴨南蛮にしたり、天ぷら蕎麦にしたりと工夫をしていて、食べ歩きも楽しいかも知れない。
もっともお年寄りに言わせると「量が多くて食べ歩ききれない」という声もあるよう。一杯500円ではなく、2~3千円でわんこそばくらいの容器を用意して「各テントの蕎麦を食べ放題!」なんてしたら、案外受けるのではないかと思った次第。
これだけの会がそろい踏みをするのはなかなか壮観だけど、私もあちこち挨拶しながら味見をしたけれど、3杯が限度。蕎麦も案外量は食べられないものですよ。
体を動かして友人、知人と話をして美味しい蕎麦にありつける。蕎麦イベントに参加することはまさにストレス解消にうってつけである。
幌加内の団体戦で切った指は、若さで全快しました。次回は「そば研」の名に恥じぬよう、結果を残したいです。
知里真志保は、金田一京助に見いだされ、その援助により一高、東大と進んでアイヌ語の研究者となりました。
金田一博士は、息子・春彦を二高に送り、真志保を一高に進学させたほど真志保の才能に惚れ込んでいたようです。
学者としての真志保は、先達の業績を徹底的に批判するスタイルを得意としていました。
金田一博士に対しても、真志保は容赦ない批判を加えたそうです。
真志保はアイヌ民族初の学者でした。民族のトップランナーとして、強烈な自負心と責任感を抱いていたのでしょう。
同時に、拭いようのない劣等感にもさいなまれていたのではないかと思います。
一高時代、露店に掲げられた「アイスクリーム」の文字を「アイヌクリーム」と見間違えたというエピソードが残っています。
真志保は、確か50代で惜しまれながら世を去りました。
奥さんがご健在で、アイヌの人々のご意見番として活躍しておられます。
しかし、彼の研究成果は不朽の名作です。ぜひ皆さんにも読んでいただきたいものですね。
またお姉さんの知里幸恵さんはわずか19歳にして心臓病で亡くなるまでにアイヌのユーカラを日本語に情感たっぷりに訳した「アイヌ神謡集」を著しています。
「銀のしずく降る降るまわりに…」で始まるこの偉大な著作も大切な宝物です。
今度またお手合わせをよろしくお願いします。