ある企業の方からの年賀状が今頃届きました。
ちょうど連絡する用事があったので、皮肉ではなく「随分タイミングの遅い年賀状じゃないですか(笑)」と言ってみたところ、「だって三が日だとたくさん届くので紛れてしまうじゃないですか。それよりはちゃんと添えた一言をしっかり読んでもらえて印象的になるんじゃないでしょうか」とのこと。
なるほどねえ。タイミング一つでも、他との差別化をいかに図るかという熾烈なビジネスセンスなのかも知れないな、と思ってちょっと印象的でした。
ところが「タイミング外れで届いた年賀状が印象的でした」という話を別な人にしたところ、「小松さん、こういうことだけは目立つことをせず、穏やかに真面目にやる方が良いものですよ。それにいい年になったら、年賀状もあまりおちゃらけたものにせず、無難にしておくのが良いですよ」と言われてしまいました。
まったく異なる価値感がそれぞれにあって、正解はないのでしょう。
私自身の年賀状は、文面の様式を毎年変えたりせずに写真一枚と近況報告とし必ず一筆を添えて、元旦にちゃんと届くようにしたいと思っています。
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虚礼廃止、質素倹約ということがよく言われますが、新年の新聞の広告面は、様々な企業の年賀の挨拶で埋められています。
まだまだ年賀状のような世間的儀礼に個人も企業もちゃんとお金をかけて経済が回る、ということが日本人的で面白い。
このような、"やらずにはおれん"、"やらないと何か心が落ち着かない"という社会に対する参加や関係性の意識というものは、長年にわたる家庭内教育や地域教育、社会教育でこそ育まれるものです。
しかしそれでいて、何をどう教育するかなどという教科書はありません。
地域や家庭が信じている価値観を
だから、そういう力が衰えるとたちまち廃れてしまう危険性をはらんでいるのですが、近年特にこの家庭内教育と地域教育の力が弱っていると言われます。
神社などは、誰も「お参りしなさい」なんて言わないのに、多くの人たちが初詣に出かけてきます。
そのエネルギーの源は何なのでしょうか。
私が思うには、日本人であるからにはそうせずにはおられない日本人らしさに起因する説明のつかないものがあるような気がします。
そしてその説明のつかないものがわかる、ということが逆に日本人らしさではないのか、と。
そのヒントは…、私なりにはある意見があるのですが、それはまたいつかお話いたしましょう。今日はここまで。
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