お笑い芸人の雨上がり決死隊が司会を務める「アメトーーク!」という深夜番組が人気です。
我が家でもほぼ毎週観ていますが、アニメのガンダムが好きな「ガンダム芸人」や、家電に詳しい「家電芸人」など、「○○芸人」という何か共通の話題性を持つ芸人が集まってトークを繰り広げるシリーズは、芸人さんたちが普段は見せないような側面を浮き彫りにして、そこで笑いを取るところが興味をそそります。
この番組は、芸人さん持ち込み企画として、さまざまな実験的トライアルをやることでも有名です。
なかでもこの番組で放送された「中学の時イケてないグループに属していた芸人」という企画は、お笑いタレントさんたちが、中学校の時にイケてなかった話、つまり笑い者になった話を自虐的に明るく語るという、マニアックな話でしたが、これがなんとギャラクシー賞の月間賞を受賞しました。
ギャラクシー賞とは、放送批評懇談会が日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀番組・個人・団体を顕彰するために、1963年に創設した賞で、事実上、日本国内のテレビ番組作りの最高の栄誉となっているもの。
私も見ていて爆笑しましたが、中学校の時に人気がなくて笑われても芸人として立派に活躍できますよ、というエールが垣間見られて、元気が出る内容になっていました。
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これと似たような企画に、「運動神経悪い芸人」というのがあって、これもまた運動神経のなさを自虐的に語って笑う、というものなのですが、観ていて気が付いたのは、これってある種の障碍なのじゃないかな、ということ。
いま障害と書かれることが一般的になってしまいましたが、「がい」は昔は「礙」またはその俗字の「碍」と書かれていて、「障」とともに「差し障り、さまたげがある」という意味です。
「害」となったのは上記の「礙」や「碍」が常用漢字にないから、という消極的な理由であって、そのことが「害」になるというような意味は本来ありません。
完璧な人間でない限り、誰しも心身に様々な足りない部分があって、それゆえにドジで間抜けな話が誕生して、それでも本人たちが明るく笑い話のネタにする分には笑えるのだ、ということで、それ自体は前向きな話です。
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今日私が問題にしたいのは、人が多かれ少なかれ持っている障碍についてもっと考えなくてはならない、ということです。
仕事上、管理職になって部下や多くの人たちを見ていると、つい遅刻しがちだとか、空気が読めなくて大きな声で笑ったり、人に声をかけるのが苦手とか、ちょっとした苦手みたいなものがある人を見かけることがあります。
普通はそれらを集団の中で矯正して社会人として通用するようにするのが教育の役割なのですが、中にはその期間だけでは矯正されないままに社会に出てくる場合があるでしょう。
本来そこで、障碍があるかもしれないという知識が周りにあれば、職場の中でちょっとずつ矯正するというサポートがありえるのに、そこに思いが至らないと、「だらしない奴」、「空気の読めない奴」としてレッテルを貼られて、低い評価しかされないということになりがちなのではないでしょうか。
しかしながら、管理職研修などでは「心の健康管理」としてメンタルヘルスに対する知識や対応は学ぶものの、それとはまたベクトルが違う、小さな障碍についてはまだまだ意識が高いとは言えません。
ということは自分で勉強しなくてはいけない分野ですが、そういうことも考えなくてはいけない時代になりました。
私も含めて、誰しも何かが他よりは突出していて、何かが足りない凸凹です。
職場でも凸を伸ばして、凹をなんとか矯正してあげられると良いのですが。
「アメトーーク!」自体は面白いのですが、いろいろと考えさせられます。