駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

インフルエンザ日記

2017年01月18日 | 日記
 基本的に健康で風邪もあまりひかないのでインフルエンザにも罹らないことを自慢にして生きてきたのですけれど(^^;)、このたびお正月早々に人生初罹患してけっこう動揺した(笑)ので、日記にしておこうと思います。
 ちなみに人生初入院したときの日記はこちらこちら。読み返してみたら自分でもなかなかおもしろかったんですけど、このとき断念したのが『クライタ』大劇場遠征一切合切で(初日前日だった。一晩で帰れれば昼の新幹線に間に合うとか考えていた…)、再入院も当初の予定どおり最短ですめば東京の新公に行くつもりだったんですよね、チケットのアテはあって…運命って、つらいわ…
 それはともかく、インフルエンザに関しては、注射は嫌いだし予防接種しても罹るときは罹ると聞くのでだったら意味ないじゃんとずっと受けずにきて、それでも今まで罹らないでこられていたので、インフルエンザというものはすごく体調の悪いときにすごく近くで罹患者に盛大なくしゃみとかされると移されるもの、普通にしていたら罹らないもの…というイメージでいたのですね。私は普段ものすごく健康で、かつ自分に甘く、ちょっとかったるいかもとか熱っぽいかもとかがあればすぐ最大限寝てそれで治す、みたいな健康法(?)で自分を守ってきたので、正直言って罹る気がまったくしなかったワケです。
 が、今でもどこでもらったかまったく心当たりがないままに…突然、罹患しました。
 お正月休みも映画だの観劇だのには出かけていたので、人込みの中にはいたわけですが、当人はピンピンしていましたし、すぐ近くに明らかに体調が悪そうな人がいたわけでもないし…いったいどこから来るものなのでしょうね? 罹ってみると不思議です。でもだからこそこれだけ蔓延もするのだろうなあ、とやっと痛感しました。今さらですみません、いろいろなことに鈍感なタイプなのです…

 日曜日の朝に、珍しくちょっと洟が出て、微熱がある気がする…?と思い、その日は早めに寝ることにしました。
 月曜の朝、少し楽になった気はするけれどやっぱりまだ微熱かも…?と思い、でもあさゆひトークショーには出かけて、でもブュッフェはかったるかったので寄らずに帰宅し、ただの風邪じゃなかったらどうしよう?と一応、症状など検索してみました。インフルエンザの典型的な症状とされる、咳も出ない洟もそれほど出ない喉が痛くもない頭痛もない筋肉痛や関節痛もない。食欲もいたって普通にある。私は普段の平熱が35度ほどと低いこともあり、検温して6度で、自分としては微熱ですが急激な発熱というほどではないし…と思っていたら、夜になるともう見る見る上がって7度、8度になりました。
 さすがにこれは例のアレだろうかと思い、でも近所の病院の夜間救急外来とかを知らなかったため、またしてもとりあえず寝て治そう、と早めにベッドに入りました。夜間に急激に具合が悪くなって救急車を呼ぶ羽目になってもいいように、枕元に携帯電話を用意し(普段はリビングで充電したままほっといてある)、お財布や保険証、かかりつけの病院の診察券やお薬手帳を手提げ鞄に入れてそばに置いて、水も置いて就寝。電気毛布なんかいらないくらい、自分が発熱して電気行火になった気分のホカホカっぷりでした。が、特に寝苦しいということもなく爆睡。
 火曜日、祝日明けで仕事始めの初出勤予定日でした。また微熱におちついているようでもあり、でもアレだったらまずいので病院で診断してもらってから出社しよう…と思って病院に行ったら、あっさりインフルエンザA型陽性。お医者さんは、普段健康な人なら罹っても熱が上がって下がるだけで大事になることはないので、安静にしていればいいんですよ、と薬を処方したがらない人で私は好感を持ちましたが、でも微熱続きでアタマがポーッとなっている状態はなかなかにしんどかったし、すでに脳内で会社は休んでも仕事は電話やメールや後輩に頼ったりでなんとかならないこともないなと算段つけてはいましたがやはりそうたくさんは休めないし、療養が最短ですむようにしていただきたいと訴えて、吸入薬と解熱剤を処方してもらいました。
 でものちに聞いたところによると、実はインフルエンザの死亡率って40代以上だと若い人よりかなり高くなるのだとか…? 先生、カルテで私の生年月日見てますよね?(ToT)
 ともあれ薬をもらって、家にはお正月休み用に買い込んだ残りの食材があれこれあったのでまあしのげるかとまっすぐ帰宅し、食欲は変わらず普通にあったので食事して薬を飲んで、安静にとはいえベッドで寝ててもリビングの座椅子で寝転んで読書してても同じだろうと思い、結局はスマホで仕事の関係各所に連絡したりメールしたりなんたりで仕事して、そのうちいったん熱も下がって一安心したらまた上がって、ヤダ薬が効いてないんじゃないの?と不安になったり、でも先輩罹患者(笑)からLINEもらってそんなもんだからおとなしくして寝なと言われ、不安ながらもまた一晩寝てみました。
 ら、水曜の朝にはあっさり平熱に戻り、以後一日ずっと5度台で、これで完調、となりました。
 あとはウイルスが死滅するのを待つのみね、と木曜、金曜は読書に励みました。ぐうたらする才能はあるんですよね、私。けっこう家虫なので。読書に飽きたらDVD見たり。ずっと家なので自分さえ気にしなければいいかと思いつつも、さすがに痒い気がしてお風呂に入ったり。
 ぶり返すこともなかったので、土曜、日曜と予定どおりに観劇に出かけ、明けた月曜にやっと初出社して周りに年始の挨拶をし(笑)、火曜には予定どおりにムラに日帰り観劇遠征してきました。これでやっと日常が戻ってきました。
 ひとりだといろいろ不安なこともありますが、備えあれば憂いなし、ですし「何か持っていこうか?」と言ってくれる友達や後輩もいて心強く、何よりツイッターやLINEのお見舞いコメントが心の支えになりました。これは震災のときもそうでしたね。
 というワケで、またひとつ、いい経験をしたのでした。
 日は長くなってきたなと感じすが寒さはまだまだこれからが本番でしょうし、健康に気をつけて冬を乗り切り、暖かな春を待ちたいと思います!




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宝塚歌劇星組『オーム・シャンティ・オーム』

2017年01月16日 | 観劇記/タイトルあ行
 東京国際フォーラム、2017年1月8日15時、15日11時。

 1970年代のインド映画界。エキストラ俳優のオーム・プラカーシュ・マキージャー(紅ゆずる)は、人気女優シャンティプリヤ(綺咲愛里)に恋心を抱いていた。いつか必ずスターになって君を迎えに行く、と主演映画の看板の中で微笑むシャンティに語りかけるオームを、親友のバップー(瀬央ゆりあ)とオームの母ベラ(美稀千種)は信じ応援していたが…
 脚本・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/青木朝子。2007年にインド国内で大ヒットし、その後に世界各地で上映された同名映画を舞台化したマサラ・ミュージカル。新生星組トップコンビのプレお披露目公演。

 楽しく観ました。
 事前にベニーファンの後輩に映画のDVDを借りて見ていたので、初見時はちょっとその答え合わせのように観てしまって途中ちょっと退屈してしまったりしたのですが、わかって観る二度目は純粋に楽しかったです。
 うまく舞台化、宝塚歌劇化していたと思いましたし、ベニーあいーりのお披露目にもピッタリな歌詞や台詞も添えられ、華やかで楽しくてわかりやすい作品に仕上がっていたと思います。
 続演というか再演というかも発表されましたね、ムケーシュ(礼真琴)やパップーの配役が変わってきたり、ダブルキャストなんかになってくるのかもしれません。これも楽しみです。
 ベニーは二役をとてもうまく演じ分けていると思いましたし、記憶が戻ってからも人格が変わってしまうわけではない感じをうまく演じていたと思いました。輪廻転生というか生まれ変わり、というものが実際のインドでどの程度ナチュラルに信じられているのかはわかりませんが、ベラたちはともかく、ムケーシュはちゃんと信じていないし裁判でも通用しないと明言してくれているので安心しました。なので、小柳先生が心配していたような、ヨーロッパ的価値観ではなくちょっと荒唐無稽すぎるかもしれないインド・マサラをそのまま上演することの懸念は、今回は大丈夫だったように思います。勧善懲悪とか末代まで祟るとか無念を晴らしたいとか、そういう部分は現代の日本人にも十分理解できましたしね。何よりキャラクターたちがみんなチャーミングでした。
 あーちゃんの二役も素晴らしくて、歌唱力もほぼほぼ問題なくなってきましたし、とにかく可愛くて正義! マルグリットも楽しみです。
 そして意外にもちゃんとした悪役は初めてというまこっちゃんですが、上手いしソロナンバーは圧巻! ショーヴランも楽しみですし、その次の主演作も楽しみです。
 せおっちも主人公の親友役という大きな役をもらって楽しそうに生き生きやってるし、ポコちゃんがホントいい仕事してるし、娘役ちゃんたちはちょっと役がなくてアンサンブルになっちゃってたかなーと思うのですが最下の水乃ゆりちゃんがめっカワだったことは特筆しておきたい! あと男役アンサンブルではあやなと極美慎ばっか見てましたヤバい!
 原作映画の幻想的なダンスシーンなんかはけっこう再現が難しいんだなとかいろいろ思いはしましたが、原曲をほぼほぼそのとおり歌って踊って客席降りも適度な客席参加もあって、祝祭的な公演になってよかったと思います。原作映画ファンにも好評だと聞くし、嬉しいしめでたいです。
 新生星組も素敵になりそうですね、今後が楽しみです!!










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『わたしは真悟』

2017年01月16日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 新国立劇場、2017年1月14日17時半。

 夜、東京タワーの周辺は混乱を極めていた。警察官と関係者、野次馬の間で飛び交う怒号、サーチライト。小学生の真鈴(高畑充希)と悟(門脇麦)は地上333メートル、東京タワーの最上部で幸せをかみしめながら、輝く夜景を眺めている。「わたしたち けっこん します」ふたりは空中へと飛び出し…
 原作/楳図かずお、脚本/谷賢一、音楽/トクマルシューゴ、阿部海太郎、歌詞/青葉市子、演出協力/白井晃、演出・振付/フィリップ・ドゥフクレ。1982年に連載された同名漫画のミュージカル化。全2幕。

 好評を聞いてチケットを取ってみました。気にはなっていたので…で、予習として原作漫画を読みました。これがいけなかったのかもしれません…
 私は弟とともに週刊少年誌四誌を読んで育った子供でしたが、楳図作品の当時の記憶はなく(飛ばしていたのかも、すみません…)、またホラーは苦手だったのでそのあたりの作品群も手を出したことはなく、大人になってからコミックスでいくつかの作品をまとめて読んで、ことに『漂流教室』と『わたしは真悟』は傑作だな、と思った記憶があったのでした。なので今回再読して、改めて、ワケわかんないんだけどとにかくすごい、というのを再認識して、で、舞台に臨んでしまったのです。
 でもこれは多分、原作漫画を知らない観客の方が楽しめたのではないかなー。実際今では文庫でしか手に入らないし、そこまで広く読まれている作品では残念ながらないと思うので、そういう意味では幸福な舞台だったのかもしれません。舞台に感動した方はゼヒ原作漫画も読んでみてくださいませ。
 漫画を知っていると、まず冒頭が「ここから始めちゃうんだ!?」となっちゃいますし、なんか舞台で実際の人間が演じてみせることで、原作漫画の世界のあのワケわからないけどとにかくすごいという部分が矮小化されて固着しちゃう、限定されちゃう気がしました。もっと無限の夢想みたいだったものが、固形化してしまうというか…ロボットの動きとかはいかにもそれっぽくて、具現化してくれてワクワクする!みたいな部分もあったのですが…
 でも舞台を先に観ていたら、役者さんがちゃんと子供になっていることとか、真悟(成河)の在り方とかが、本当に夢のような魔法のような、不思議でロマンチックでドキドキワクワクするものに見えて、舞台の魔法にかかれたと思うのです。その方が幸せな観劇だと思いました。
 でも原作漫画はもっともっと深くて豊かで、そして暴力的にハイスピードで、そしてけっこうドライなんですよね。舞台ではそのあたりはけっこう感傷的になっている気がして、そこがまた気になりました。特に舞台のラストシーンは、それはそれはとても美しかったけれど、でも原作のラストってそんなじゃない。「そしてアイだけが残った」っていうのも、単に本当にコンクリートに「アイ」って文字が書き残されたってだけのようでもあり、愛が残ったということではないかもしれない、って感じがいいんだと思うんですよね。だって悟も真鈴もきっとこのあとただのつまらない大人になってしまうんですよ。彼らの子供は終わってしまったのだから。奇跡は誰にでも起きる、でも起きたことは誰にも気づかれない、というエピグラフは、気づかれないならなかったのと同じことという読み方もできるわけで、彼らが生み出した奇跡のようなロボット、その自我、その愛もすべては幻で存在しないもの、とも読み取れるような作品なんだと思うんですよ原作はね私はね。
 まあ、私が原作の好きな部分が再現されていないからというだけでこの舞台を責めても仕方ないのだけれど…でも、なので私には、この作品は舞台作家の原作漫画への壮大なオマージュに見えてしまいました。ファンとかオタクって、何かの作品を好きになったらまずそのキャラを自分の絵柄で描いてみたりするじゃないですか。最近だと丸絵とか。その舞台版、に、見えました。
 でも役者はみんな素晴らしかったし、舞踊も音楽も素晴らしくて、確かにあの世界をこう表現するってのはアリだな、おもしろいなと、そこは私も感動はしたのです。でもだからこそ、「え? これだけ?」みたいにも感じてしまった、というか…ま、なんでもオリジナルが一番いいに決まっていて、二次展開はあくまで二次にすぎないものではあるんですけれどね。でも何かひとつ、「こうキタか!」と震えるようなものがあれば、また違ったのかもしれません。
 それにしても原作の、AIの自我云々みたいな部分はやっと時代が追い付いてきたんですねえ。なので今こそ再読されるべき漫画なのかもしれません。そしてだからこそ今、舞台化される意味はあったのかもしれません。
 でも原作漫画は全体としてはもっと、人間の機械に対する根源的な恐怖やそれと表裏一体のあこがれ、その前で出会ってしまったまだ男女とも言わないような年端のいかないふたりの子供、大人に引き裂かれそうになるからこそ一緒にしたい結婚したい子供を作ろうとなるふたりのパワー、その衝動と情熱が生み出す奇跡や幻想が世界を作り変える魔法を描いていて、そして収束してしまう、なんともすごいものなのですよ。なのでAIやその自我といった面にやや特化して見えたこの舞台だけでなく、この漫画全体そのものを、読んで味わってもらいたいなと思うのでした。
 あ、そうそう、でもだから悟に楳図先生ご愛用で有名な赤白ボーダーのお衣装を着せたのは、とてもよかったのではないかと思います。悟は別に楳図先生ご本人を反映するキャラクターでもなんでもないんだけれど、楳図作品の主人公の記号として、また「男の子」の記号として、すごく有効だったと思いました。






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村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋)

2017年01月14日 | 乱読記/書名か行
 36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後就職せず、コンビニのバイトは18年目。彼氏なし、日々食べるのはコンビニ食。コンビニこそが彼女を世界の正常な部品にしてくれる…第155回芥川賞受賞作。

 おもしろくて一気読みしました。おもしろい、という言葉はちょっと違うのかもしれないけれど。でも興味深い、とかだとなんか他人行儀というか。
 私にもこういうところはあるし、おそらく作者にもそういう部分はあって、それをこういう作品にきちんと仕立て上げられるから作家なのだろうな、とか考えました。というかみんな、意識的にせよそうでないにせよ、世界とチューニングを合わせて生きている。スムーズに世界の部品になれる人とそうでない人とがいる。部品になる、という言い方がアレなら、世界の一部になる、とか言い直してもいいけれど。
 ヒロインが白羽さんと安易につがいになるような展開でなくてよかったです。そういうことではないと思うので。みんななんとか世界の部品になれたとしても、縄文時代のムラの人間のオスとかメスとかになれるかどうかとかなるべきかどうかとは全然別のことだと思うので。こうして人類が、そして世界が死滅していくのだと思うので。
 ヒロインは簡単に言えばある種の障害が診断されるようなものなのかもしれないけれど、顕在化しているだけではなくてやはり数が増えているのではないかと思います。社会がもっと豊かで贅沢なうちにそこまで寛容が広げられなかったのは、やはりそのころはまだそこまでこの種の少数派がごくごく少数しか存在しなかったからなのではないでしょうか。そして社会が貧しく不寛容になるのと並行して、少数者の顕在化、あるいは拡大化が起きる…
 けれどその数が逆転することはない。サッカーをやる子供の数が野球をやる子供の数を超えました、みたいなものではないから。多数者は多数者であり続ける。でもそれは本当に純粋にたまたま数が多いというだけのことで、それが「普通」であるとか「正常」であるとかとは一切関係がないのです。常に混同されがちだけれどね。
 ヒロインは家族のために「治りたい」「普通を学びたい」と思っていて、コンビニがあればそれが現状ではできている。それでいい、というだけのことが文学作品になってしまうこの世界が恐ろしい。
 でもそれが、私たちの生きている世界なのでした。

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ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(文春文庫)

2017年01月11日 | 乱読記/書名か行
 カミーユ警部の恋人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負った。一命をとりとめた彼女を執拗に狙う犯人。もう二度と愛する者を失いたくないと、カミーユは彼女との関係を警察に隠して残忍な強盗の正体を追うが…『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』のカミーユ・ヴェルーヴェン三部作、完結編。

 『この女~』がこのミスで話題になって読んで、そこから訳出された順に読んできました。
 三作品ともミステリーとしての趣が少しずつ違っていますよね。今回の作品はある種の著述トリックという意味では『この女~』に近いかもしれません。でもやはりミステリーとしてというより小説として、せつなく、おもしろく読みました。
 私はカミーユが最後まで警察官として行動してくれたことがうれしかったですし、自殺とかして終わるエンディングじゃなくてうれしかったです。まあこのあとどうかはわからないんだけどさ。カミーユはアフネルの妻子を逃がし、アンヌも逃げさせました。アフネルのことはマレヴァルに殺させたけれど、マレヴァルのことは殺さず逮捕しました。それが彼のけじめのつけ方なのだろうなあ、と。女を、愛を知った男はそういう生き方をするのに、そうでない男は…という物語でもあるのかもしれません。
 それぞれ原題は全然違うもののようだけれど、期せずして女名前が揃ったように見えるシリーズ、というのもたいしたものですね。アレックスというのは男女どっちつかずの名前だけれど、いい邦題で印象づけましたからね。
 ほかに中編がいくつかあるだけで、長編としてはこれで完結、というシリーズだそうです。私はルイが大好きなんですけど! 彼の話はないの!?
 …静かに新作を待ちたいと思います。

 

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